Rain

 誰もがこうなることを知っていたのだろう。遠雷の重く響く空の元、河原の土手に伸びる灰色のアスファルトを行き交う人々の手には、空からの来訪者を待ちかねたように、色鮮やかなビニールの花々が咲き始める。
「……」
 だが、道路をはずれた草むらに立つ少年の手にだけは、雨をしのぐための道具が握られていない。彼は降り出した雨から逃れようともせず、ただ雨露を纏い始めた土手の草むらの中で、目を閉じて静かに立っている。周囲に満ちていく柔らかで涼しい雨の匂いを、少年は少し俯いたまま胸の奥深く吸い込んだ。降り始めたばかりの、微かに温かさが混じる不思議な匂いが、少年は大好きだった。
「風邪、ひくよ?」
 弱々しい空気の揺らめきに、雨とは違った香りが薄く混じる。
「随分、久しぶり、……だね」
 香りの主の二言目で、少年はそっと瞼を持ち上げた。雨露で曇る視界の中で、長い黒髪を風に揺らす少女の姿を見つけた途端、それまで張りつめていた彼の雰囲気に柔らかさが戻っていく。彼と目のあった少女もまた同様だ。彼女の青白い瞳がすっと細まり、口元が少し緩んでいる。
「……また、会えたなぁ」
 少年の言葉に彼女も笑顔のままで頷いてみせた。それきり、少年も黒髪の少女も、ちらちらと視線を交わすだけで何も喋ろうとしない。
 僅かばかり蓄えていた熱で、アスファルトは灰色の身を黒く濡らしていく無限の軍勢にささやかな抵抗をしてみせるが、程なく熱を奪い尽くした雨と、冷たく横たわるアスファルトの織りなす初夏の匂いが、無言の二人の間に流れ始めていた。この場所で二人が初めて出会った、五月にしては温かく、そして優しい雨の降っていたあの時のように。
「あの時と同じだね。ふふ、また困った顔してるよ。何か迷い事かな?」
 鈴の音のような可愛らしさを残す少女の声は、耳に届く雨音を縫って鮮明に聞こえてくる。
「俺……」
 少年の掠れた声は、風に踊る草擦れの音に消えていく。あまり元気がないことに一瞬不思議そうな顔をした少女は、唇に這わせていた中指の、形の良い爪をくわえて片目を閉じた。軽く頷いて少年の言葉を促す。その特徴的な格好は、目の前にいるのが一年前と同じ彼女だということを示していた。彼の口はようやく動き始めたのは、少女が目に入った雨粒に二度瞬きした時だった。
「あんたに会えてよかった、って、へへ、それだけ言いたかったんだ」
 少年の言葉に後ろめたさを感じて、目元を綻ばせていた少女の表情が曇る。
「言いたかった……?」
 少女が言葉を繰り返し、何かに別の意図に気づいた様子を確認すると、少年は言葉を繋いだ。
「一年前、高校に入って何しようか迷って河原でぼんやりしてた時、あんたはふと目の前に現れて、俺にきっかけをくれただろ。懐かしいなぁ。それで俺は演劇を始める事ができたんだよな」
 彼女の耳にも、彼の通う高校の演劇部の噂は聞こえてきていた。名の通った部の話の中で、ちらほらと彼の名前を聞くようになったのは、今からほんの二ヶ月も前のことだ。いい噂ばかりなのに、今の少年はどこか様子がおかしい。
「今日来たのは、去年みたいに何かで迷ってるからじゃないんだ……」
 少年が顔を伏せると、途端に彼の体が変質を始めた。
「もう、会えないんだよ」
 雨を含み、黒く重い印象を与えていた学生服は、言葉の終わりを待たずぼろぼろに破れ始めた。
「あっ……!」
 少女が小さく声を上げる。彼の胸の辺りに浮かんだ赤い染みが、止まることを知らずに大きさを増していく。赤いシュプールを黒い制服に残し、そのまま緩く滴り落ちた滴に足下のオオバコはどろりと熱く絡め取られた。無限に降り注ぐ冷たい雨に洗われても、新緑の葉は絡みついた赤から逃れることが出来ない。
「部活の帰りにちょっと事故に遭ってさ。ただ、その時のことはあんまり覚えて無くて」
 傷口を撫でて、少年は赤く汚れた手に視線を落とした。鮮やかに濡れた赤が、静かな雨音の中で、全てを諦めたように滲んでいく。
「せめて、まだお礼を言ってない人に会っておきたいと思って目を開けたら、この場所に立ってた」
 語尾を濁した少年の笑顔に、彼女の噛んでいた中指が力無く口を離れた。もう片目を瞑って笑って見せている余裕など、ほんの少しもありはしなかった。
「ありがとう。たった一年だったけど、俺、あんたのお陰で凄い面白かった」
 言い終えるのを待っていたように、血に染まった体が音もなく崩れ始めた。
「ま、待って!」
 咄嗟に叫ぶ彼女の声も、既に彼の耳には届いていない。微笑むばかりの少年には、もう少女が何をしようが無駄だった。
「こんな……、まだ、私……」
 彼女は唇を噛む。自分のしたことが、結果として少年の命を縮めてしまったのだ。もし少女が演劇を勧めなければ、彼は違った生き方をして、まだ生きていられたかもしれないのに。
 完全に消え去る間際、少年は静かに最期の言葉を残した。
「俺がこうなったのは、あんたのせいじゃない。もしそんな風に考えてるんなら、結果はどうあれ自分で選んだ事を後悔するなって、俺に言った一年前のあんたの言葉をそっくり返しておくよ。あんたは迷ってた俺に道を示してくれただろ。そして俺は教えてもらって良かったと思ってる。だから、言った自分が後悔なんかしちゃ駄目だ……」
 その場に彼が残した思いが、彼女の中に流れ込んでくる。
 ……ああ、いい雨だ。またいつか、この場所で……。
 伏せられていた青白い瞳が寂しげにふっと緩んだ。
「後悔、……しないなんて嘘だよ」
 消え入りそうな言葉を残し、彼女の姿もまた小雨の中にじんわりと揺らめいて輪郭を無くしていく。少女の瞳には、もう先程までの笑みは無い。これも彼女にとっては、気の遠くなるほどの年月の中、幾度と無く繰り返してきた事の結果の一つに過ぎないのだ。誰かが道に迷っていればそっと手助けしてやるというだけの、ただそれだけが与えられた生き甲斐だった。今日のような一年前の雨の日に、彼とこの場所で出会うまでは。
「待っていれば、またいつかここで会えるかな……」
 降り続く無限の滴の中で、彼女の頬を伝って零れ落ちた一筋の熱い滴に、足下のスミレが微かに揺れた。


 雨上がりの夕暮れの中、土手のそばにぽつりと佇む黒い石碑が、少年の立っていた場所を撫でるように、長く黒い影を落としている。道に迷った旅人に正しい道を教えてくれる神、道祖神の名が彫られたその石碑には、ほんの薄く傘の落書きが刻まれていた。
 雨が降ればようやく浮かび上がる程度に刻まれた模様の下には、雨の中で言葉を交わした少女と少年の名前が並んでいる。
 優しく降りしきる雨の中、少年は差し出されていることに気づかなかった、彼女の傘の下に。

了 


戻る