無敵男 全戦 全敗が行く

無敵その一 〜砂漠のコンビニエンスストア〜

 幾万幾億の星々をその身に抱えた群青色の天蓋に、年頃の乙女の頬を思わせる赤みが差し始めていた。
 遙か遠く、地平線を破って現れた灼熱の恒星が、深い眠りに落ちていたアフリカの大地に朝が来た事を静かに告げる。身を引き裂かんばかりの冷気が染み込んだ空気に乾いた温かさが戻り、微細な砂混じりの空気を吸い込んだ気管を乾かせた。
 今日もまた暑くなりそうだ。昼夜の温度差が、実に四十度以上の環境で放浪の旅を始めて、既に一週間が経とうとしている。各地を放浪するのが趣味だとはいえ、流石に知識だけで初めて一人旅をするには、砂漠は十分以上に過酷だった。その上渇きを癒す水分の補給もままならない。希に見つかるオアシスだけが、乾いた体も荒んでいく心も癒してくれた。
 眼前には、終わりの見えない荒涼とした砂の海が、旅人の進入を拒むようにその身を静かに横たえている。水が切れてから、既に八時間は経っていた。夜の顔で正体を隠していた金色の監獄が、徐々にその牙を剥き始めている。唇は乾き、肌を焼く日差しを受けても汗一つ出てこない。このままでは、上がり続ける体温で今日中に死を迎えるだろう。諦めにも似た感覚が私の動作を鈍くする。しかし、まだどこかで食い下がろうとする足は、ブーツに潜り込んだ砂に屈することなく、私をその場所に導いた。
 どれほど歩いただろうか。永遠とも思える時間、あてども無く歩いていた私の目に、嫌味なほどはっきりした幻覚が見えた。透き通る水をなみなみと湛えたオアシスが、不意に私の前に現れたのだ。隣には、一軒の小さな建物がひっそりと佇んでいたが、そんなものに目をくれている余裕はない。残った力を振り絞って、私はオアシスに駆け寄った。例え幻であろうと、せめて一時でもこの苦痛を逃れて死にたい。
 幻の水に思い切り顔を付けた。砂の熱さが顔を焼き、私はそのまま意識を失う筈だった。
 ……?
 乾燥して割れた唇に、心地よい冷たさが鈍い痛みを伴って染み込んできた。慌てて顔を上げた私の頬からは、幾筋もの水の滴が流れ、重力に引かれて砂漠には不似合いな雨を降らせている。
 砂に落ちる水が、砂粒を吸い寄せて小さく凝固する様をしばらく見ていた私に、一つ分かったことがあった。これは幻では無い。私はそのまま水辺にかじり付き、息もつかずに夢中で飲み続けた。一つ飲み込むたびに体中の細胞が蘇っていく。それほどまでに砂漠の熱は強烈なのだ。胃袋の限界まで水を飲み込んだ私は、そのまま側に生えていた細い木にもたれて大きく息を吐き出した。
 消えかかっていた命が繋がった事で、周りを見回すだけの余裕がようやく生まれた。地平線の向こうに揺らめき始めた陽炎も、青く大地を見つめる空も、今だけは暑さを感じさせず、むしろ心地良くすらある。そうしている内に、先ほどは気にもしなかった奇妙な建物が、再び私の目に張り付いた。
 建物の傍らには、どこからでも見えるように高く掲げられた、強化プラスチック製の白い看板が立っている。アルファベットだが、いやに達筆な毛筆体で“Ying&Yang”と表記してあるそれは、この建物の名前を妙なインパクトを伴ってアピールしていた。無防備にも建物のほとんどがガラス張りで内部がほぼ丸見えである。両開きの大きな入り口に“May I help you?”と書かれた黒地に緑の砂落としが乗ったシートが置いてある。他にはタバコの自販機、緑色の公衆電話まであった。そう、このたたずまいはどう考えても……。
「そろそろ品物の補充が来る頃かぁ、くぁ〜ぁ……あふ」
 くたびれたようなあくびをしながら、中から大きな虎が出てきた。およそ信じられるものではないが、二本足で歩き、その上言葉まで喋っている。虎は大きな伸びをするとこちらに気がついたらしく、照れ笑いを浮かべた。
「いらっしゃいませ」
 にこりと笑いながら挨拶すると、箒と塵取りを使って獣面人の虎男は楽しそうに掃除を始めた。手際良く店先のコンクリートを覆った砂を払いのけ、そこが元の駐車場の姿を現すまでに、そんなに時間はかからなかった。
「お客さん、砂漠は初めてですか?」
 呆然と立ち尽くしていた私に、虎男が話し掛けてくる。発音がしっかりした英語だ。訛りのかけらも無い。それらしく返事を返す。
「なら、うちで準備をしていきませんか? 創業四十年、砂漠のYing&Yangといえば砂漠愛好者の中では結構有名なんですよ」
 狂暴な外見とは裏腹に、あまりにも丁寧で親切な店員に促され、状況が飲み込めずに流されるまま、私は砂漠で出会ったコンビニ“Ying&Yang”の中に入っていくのだった。

 

無敵2 〜参上、無敵の全敗〜

 程良い冷房が開いた扉から漏れてくる。逃げる空気と入れ違いに、熱い空気を纏って入った店内は奇麗に整頓されていた。等間隔で整然と商品棚が並び、そこにはまた、日頃滅多にお目にかかれない商品がすっきり並んでいる。品切れで空になっているスペースはどこにも無い。店員の性格が良く現れていると思う。几帳面な虎男を改めて見てみると、彼は私の視線に笑顔を返した。
 「水筒なんていかがですか? この辺りにオアシスは滅多にありませんし、少し大き目なのを準備していったほうが何かと安心ですよ?」
 器用に水筒のある方を指差しながら語り掛けてきた。
「あ、それと………………」
 穏和で軽快な口調がにわかに曇り、彼は一瞬だけ水筒置き場に視線を向けた。
「い、いえ、何でもありません、失礼しました。さぁ、見ていってください」
 一瞬の逡巡を不思議に思っていると、彼はまるで私の中に僅かに浮かんだ猜疑心を掻き消そうとするかのように、店の右奥の売り場へと私を促した。
 やや不審には思ったものの、程なく私は水筒売り場に向けて歩き出した。考えてみれば、一つ前のオアシスまではあるキャラバンと旅をしていたのだが、そこで別れた時、借りていたラクダを返したのと一緒に、自分の水筒まで渡してしまったのが大失敗の始まりだった。バッグに残ったのは予備の小型水筒だけで、それも既に空っぽだ。そして今日、念願のオアシスを見つけたのだ。大きい水筒は絶対に欲しい。ポリタンクも良いが、持って歩くには大きすぎる。やはり水筒だ。
 店内はあまり広くなく、ほんの数歩で売り場にたどり着いた。いや、着くはずだった。目の前に水筒が沢山並んでいるその場所に。
 足が動かない。頭の中に点灯した常識という警告ランプが、そこに到達するのを拒ませる。信じられないその光景が、水に飢えて死の窮地に立たされてもなお乗り越えた私の足を、その場で凍り付かせたのだ。
「てて、手を上げるっす! た、頼むから、上げ……、いや、上げるっすー!!」
 象がいる。またも二本の足で立っている象が、汗を大瀑布を思わせる勢いで流しながら、彼の目の前にいる何かを脅しているらしい。その何かに目を向けてみる。そこに、彼はいたのだ。
 涼しげな白のタキシードに身を固め、二十世紀の怪盗を彷彿とさせる、片方だけのレンズのみの眼鏡を右目に装着し、ピンと鋭角に尖っている口髭の端を、余裕を見せるような仕種で撫でながら、冷静に象男を見据える東洋人がいた。
「私が、誰か知っているのか?」
 男は一歩足を踏み出した。レンズから下がる金の鎖がチャラリと音をたてる。
「う、うううぅ、動かないでくださ、ああっ、いや、あの、動くなっすー!」
 象男は明らかに動揺していた。丁寧語と奇妙な方言の狭間で、手に持った水鉄砲が震えている。内部は溢れ出すほどの赤い色水で満たされていた。あれを食らっては、東洋人の白いタキシードなどは一たまりも無い。
「私は誰かと聞いているのだよ」
 動じた様子もなく、更に一歩、男は足を踏み出し、すっかり戦意を失った象男にその男はこう言い放ったのだ。
「無敵男 全戦全敗だ、観念してもらおう」

最終無敵 〜さらば、無敵男〜

 象男の顔が見る見るうちに青ざめていく。私の顔も青ざめていく。象男のそれとは、大分理由が違いはするが。
 ……無敵、なのか?
 砂漠を歩き通しで疲れていた所に、今までの非常識の連続でとどめを刺された。呼吸困難に陥りそうな私を、虎男が慌ててやってきて介抱してくれたお陰で、どうにか意識だけは無くさずに済んだらしい。
「あっちゃぁ、やっぱりまずかったかぁ……。あなた達、やるなら外でやってくれませんか? これでもう三十一人目ですよ……」
 そんな虎男を見て、全敗は不敵な笑みを浮かべて見せた。
「気にするな、私は無敵なのだからな!」
「あ、あぁ! そうか、そうでしたね」
 得体の知れない迫力に押し切られて、虎男は納得してしまったらしい。相変わらず納得いかない私をさて置いて、取り残されていた象男が最後の抵抗に出た。
「う、っく、喜望峰から折角ここまで逃げて来て、ここまで来たのに……畜生っすー!」
 象男は、震える手でプラスチックの引き金を引いた。狙いが定まらない銃口は、ことごとく明後日の方向を向いていた。しかし……。
「ぬぅ!」
 あらかじめ、動きを読んでいた全敗が避けた方向に、全て銃口が向いてしまったのだ。全敗の動きはまさに神懸かりだった。予測不能の動きを見せる銃口に向いて的確に飛び、滑り込み、跳ね、もんどりうち、振り向き、転げ回り、時には気障にポーズを決めながら、本人は避けているはずなのだが、一発たりとも外しはしなかった。
 全て撃ち切り、肩で息をする象男を見た全敗は、全身ピンク色のまだら模様に染まっていた。彼はまだ浮き上がったままの色水を落とそうと擦ってみるが、赤い水はいよいよ純白のタキシードに滲んでしまい、取り返しが付かないことになってしまった。
「お、おのれ! 私が、このような……! くっ、オアシスで洗ってくるまでそこで待っていろ!」
 滲んだ染みを気にしながら、全敗は表に出ようとした。
「それ……、あの、油性インクっす」
 背後から無情にも投げつけられた言葉に、全敗は力なく膝を突いた。先ほどまでの余裕は微塵も感じられない。
 私の意識も、極度の疲労に襲われて、そこで力尽きてしまった。


 私が目を覚ましたのは、オアシスが目の前にある草地だった。日差しが眩しい。しばらく、私がなぜ倒れていたのかを考えることもしないまま、頭を振っていた。耳から少し砂が零れる。
 ……零れる? 砂。水……。水筒?
 取り止めも無く考えていた私の頭に、“Ying&Yang”が蘇ってきた。
 ……そうだ、あのおかしなコンビニはどうした?
 あたりを見回しても、そこにはあくびをしながら次の商品の配送を待つ虎男も、水鉄砲を構える弱気な象も、白いタキシードに身を包んだ無敵男もいなかった。ただ、広い広い砂の海が相変わらずその身を横たえているばかりである。
 ……おかしい。ここには確かにコンビニがあったはずだ。砂漠には似つかわしくない、故郷の日本でよく見かけるタイプのコンビニが。
 私は、ふと考えた。
 ……確か、遠くのものが、光の屈折で近くに見える蜃気楼というものがあったな。……いや、有り得ない。蜃気楼は幻だ。近くに行けば遠ざかる。だとすれば、オアシスで水を飲んでからいつの間にか眠っていたのか。 疲れていたとはいえ、なんておかしな夢を見たものか……。
 その考えも、どうやら違っていたようだ。
 右手には、大きな水筒がしっかりと握られていたのだから。
 吹き抜ける乾いた風に、三十ドルの値札に引っかかっていた猫毛が、申し訳なさそうに晴れた砂漠に舞い上がった。



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