That's a plume of dream

* 1 *

 いつも夢を見ていた。
 ずっとずっと、その夢を抱き続けていた。
 他愛のない夢。
 でも僕にとってそれは、かけがえのない夢だった。

 今日みたいな日に空を見上げると、「抜けるような青空」っていうのを本当に実感できる。
 鮮やかな青は遥か遠くて、でも海よりも深い感じがした。たまに浮かんでる雲の白と、吹き抜けていく冷たい風。秋の気配が感じられるようになった今日は、穏やかな日だった。
「僕の背中にはね、いつか翼が生えてくるんだよ」
 校舎の屋上に寝っ転がってる僕は、そんな言葉を口にする。
「その翼で空を飛びながら、僕は真っ白い羽と一緒にみんなに幸せを振りまくんだ」
 夢だった。
 中学生が持ってるには現実味のないものかも知れない。でもそれは僕がずっとずっと抱き続けてきた夢だった。
「ふぅーん。いいわね」
 僕の隣で座っている女。二歳年上の彼女は、素っ気なく応えながらも微笑みを浮かべ続けていてくれた。

 他愛のない夢。
 かけがえのない夢。
 それを捨てることなんて、僕にはできなかった。


 ――夢ってなんだろうな。
 僕の中でそんな思いが揺れていた。
 揺れているのは心ばかりでなく、身体の方も揺れている。
 吊革をつかんでいるのがやっとの満員の電車の中。木枯らしも吹き始めているというのに、電車の中は汗がにじむほどの熱気が満ちている。
 昨日は残業してた上に、家に仕事を持ち帰って徹夜に近い状態で、疲れた身体をむち打っての出社だ。さらに作業にひと段落つき仮眠のつもりでベッドに横になったのが運の尽き。いま乗ってる電車は定時ギリギリの電車だった。
 いつもの駅に到着したと同時に人も迷惑もかき分けて電車を降りる。人の波をうまく避けつつ階段を上がり改札口を抜け、会社に向けて走り始めた。
 ここから会社まで走って五分。時計を見ると一応遅刻がつかない時間もまた、残り五分になっていた。
 最近忙しくて疲れていたなんて言い訳で遅刻が許されるわけがない。とくにうちの会社じゃ遅刻した人間には部長が直々に説教を垂れてくれる。厳格というよりねちっこいタイプの部長の説教が、僕には恐怖の的となっていた。
 あっという間に社屋が見えてきて、入り口の自動ドアが開くのももどかしく中に駆け込む。ちょうどやってきていたエレベータに乗り込んだところで、僕はひと息ついた。  どうにか始業には間に合いそうだった。それでも始業十分前にタイムカードを押していることが原則だから、どうせ部長からひとこと言われるんだろう。
「よぉ、幸伸。今日は遅いんだな」
「寝過ごしちゃってね」
 五階にある企画部に飛び込み、同僚からかけられた声に応えつつタイムカードを押してもうひと息。タイムカードに印刷された時間は、始業時間一分前だった。
「寝坊か? 珍しいな。根詰めすぎるなよ」
「俺じゃないんだからお前が遅刻してどうするよ?」
 椅子を避けながらかけられる声に返事をしつつ自分の席に向かう。どうにか遅刻を免れた安心感でドサリと鞄をデスクに置いて、椅子に座り込んだ。
「……」
 ふと目を上げる。すると書類などが立ててある棚の隙間から、同期で入社した琴絵が視線を投げかけてきているのに気がついた。
「――おはよう」
「おはよう、幸伸」
 ぎこちない挨拶を交わした後、琴絵は席を立ってどこかに行ってしまった。
「どうしたんだ牧島? 琴絵ちゃんと喧嘩でもしたのか?」
 唐突に背後から声をかけてきたのは利哉だった。振り返ると彼は嫌らしい笑みを浮かべている。
「とくになんでもないよ」
「ほぉ、そうだったのか? お前らまだ婚約前だったよなぁ。もしかしてオレにもまだチャンスはあるってか?」
「……朝礼前にやっておきたいことがあるんだ。つまらない用事ならどっか行ってくれ」
 そう言ってやると利哉は「へいへい」なんていいながら自分の席の方に戻っていった。  篠崎琴絵。利哉の言葉から想像つくように、僕と彼女は婚約前、つまりつき合っていた。彼女とのつき合いは学生時代からだからずいぶんと長い。喧嘩や関係がぎこちなくなることくらいたまにあることだった。……ただ、今回は少し事情が違っていたが。
 ――琴絵になんて答えを返せばいいかな。
 つい数日前に彼女に言われた言葉。僕はそれに対する答えをまだ見つけだせずにいた。
「ふぅ」
 溜め息をついて気分を切り替えた僕は鞄を開けた。今日ギリギリの出勤をする原因となった書類を取り出し、内容を確認していく。
 その書類はこの篠崎プランニングの第一企画部が受け持つことになった、今期の新しい計画の企画草案だった。
 計画とは、我が社が確保したスペースシャトルの貨物区画をどう使うか、ということに関するもの。篠崎プランニングの第一企画部では、昔に比べてずいぶん一般にも手が出せるようになったそういったスペースシャトルやロケットの開放区画を確保し、自社で企画を立てたり協力協賛会社、研究機関から提出された企画の進行したりといった仕事をしていた。
 今回は打ち上げがずいぶん先のスペースシャトルの開放区画をとりあえず確保することができた。そのため企画部で企画を出し、その企画に沿ってスポンサーや協力組織を集めることになっている。
 その計画の企画会議はもうまもなくに迫っていた。企画部の各人はそれぞれに企画の調整作業に追われているし、僕が昨日自宅で徹夜作業をしなければならなかったのもそのためだ。
 しかし僕は、いま手元にある企画を提出するかどうか考えあぐねいていた。
 見せなければならない資料や必要になる発表素材の目処はほぼついていた。それでも提出をためらっている。
 顔を上げて見た正面の机には、まだ琴絵が帰ってきている様子はなかった。

 ガラス張りの大きな窓の向こうからは、微かに波の音が聞こえてきていた。
 手元を照らすように点けられたスポットライト。波の音にあわせるかのように流れている微かな音楽の下で、ナイフとフォークが踊っている。
 今日は琴絵と一緒に海辺のレストランに来ていた。月数回の彼女とのデート。いまではずいぶん高級な店に入るようになったものだけど、目が合えば微笑みあうような僕らは、昔からあまり変わっていないように思えた。
 彼女と知り合ってのは僕が引っ越した直後だったから、中学二年のときだ。つきあい始めたのは高校一年のとき。それからずっとだから、僕と彼女の関係はもう十年以上になっている。
 琴絵の親――つまり、篠崎プランニングの社長にも認められるようになってからも、ずいぶん経っていた。
「ねぇ、幸伸」
 ほぼ食事を食べ終わり、ワインを飲んでいるところで琴絵が声をかけてくる。
「ん?」
「わたしたち、いつになったら毎日一緒に食事できるようになるんだろうね」
「……」
 僕はその言葉に答えることができなかった。
 その言葉が意味しているもの、それは結婚――。
 僕は琴絵のことが好きだった。愛していた。その気持ちに偽りなど一片もなかった。それなのに、僕は言葉を失ったまま呆然としていた。
 琴絵との結婚。それによって僕は彼女と一緒の幸せな生活と、そう遠くないうちの昇進を得ることになるだろう。同時に社長令嬢との結婚は、僕に社長への道を開くことになるだろう。
 もちろん僕にとってそれは望むべくもないものだった。普通なら望んでも得られないものを、最愛の女性とともに得ることができるのだから。
 言葉もないまま琴絵と見つめ合う。しかし僕たちの間に、会話が発生することはなかった。
 得るものへの期待とともに僕は別のことを感じている。
 ――夢は、どうなってしまうだろう。
 他愛のない夢であるのはわかっていた。
 それでもかけがえのない夢だった。
 結婚で得られる安定がそれを崩してしまうのではないかと感じている僕が、その日琴絵に答えを返すことはなかった。


 企画をまとめ上げる作業に終われ、その日の仕事は終わった。
 琴絵と話し合うこともできず――せず、皮肉にも利哉の言う通り、僕たちの間に生まれた亀裂はいまだ埋まることはなかった。
 結婚のことは、本気で考えている。もし僕が結婚するとしても、その相手は琴絵しかいないとすら思っている。けれどやはり、昔思っていた通りでないにしろ、夢の実現を願っている。その夢も結婚によって得られる社長への道にとっては邪魔なものだ。これから先安定を求めていかなければならない僕は、それを捨てる必要が出てくるだろう。
 いまはひとりで住んでいるマンションの最寄り駅で電車を降り、自分の部屋への向かっていた。
 時間は十一時を過ぎ、職場からずいぶん離れたこの辺りは、食べ物を出す店と言ったらもう呑み屋くらいしかない。今日みたいな日は家で食事をつくる気も起こらず、僕はちょっと寄り道してコンビニに入った。
 街灯すら薄暗く感じる道路とは打って変わって明るい店内で、僕はまず雑誌が置かれているコーナーに行って今日発売の週刊誌なんかを眺めている。
 そうしてることにはほとんど意味はない。本屋に頼んで定期購読してる経済雑誌を除けば、僕が雑誌を読むことはほとんどなかった。ただ、家に帰って寝ると、また明日という時間を過ごすことになる。それに少しばかり、重さを感じているだけだ。
 僕が考えているスペースシャトルの利用方法は、月を観測するための衛星の積み込みだった。その衛星を使った観測の目的は、月の鉱物資源の観測。この企画を足がかりに、ゆくゆくはそれを利用して新しいエネルギーを得るという壮大なものへと発展していくことになるだろうものだ。誰が考えついた計画でもなく、僕自身で考え出し、進めている企画だった。
 しかしその企画は今回一回で終わるようなものじゃない。今回の観測で充分な資源が発見されたとしたら、その後は会社全体で開発に着手する必要が出てくる。それは莫大な利益をもたらす可能性のあるものであったが、逆に考えれば、観測によって資源が発見されなければ今回の企画による出費はすべて無駄になり、また発見されたとしても、大規模な計画の失敗は会社そのものを危うくする。
 今回の計画は、たとえ誰が提出した企画であったとしても、僕が主任として進めることが部長から内々に言い渡されていた。その先のことは言われていないが、どんなものであってもそれなりの成功を収めた場合、社長から琴絵との婚約が認められることになると僕は気がついていた。
 そんな立場の僕がいまみたいな企画を提出したらどうなるだろうか。さらに計画が失敗したとしたら……。
 適当に手にとって開いていた雑誌を戻し、弁当が置かれている棚に向かう。
 その僕を足止めするかのように、目の前に女性が立っていた。
「よっ。久しぶり」
 たぶん、僕より年上だと思える落ち着いた雰囲気の彼女。髪が長く引き締まった感じの顔をしている彼女は親しげに話しかけてくるけど、僕は彼女が誰なのかまったくわからなかった。
「なんか考え事してたみたいだからさ、ちょっと声かけづらかったんだよね」
 僕の沈黙をよそに、女性は話を続けていく。たまらず僕は彼女に声をかけた。
「えぇっと、どなたでしたっけ?」
「ん? わかんないの? 私だよ、私。最近会ってなかったけど、昔はよく話してたじゃないの。ほら、この顔をよく見て――」
 鼻と鼻がくっつくほど近づけられた顔。覗き込まれた瞳を見つめ返しているうち、僕は気がついた。
「あぁーーっ」

* 2 *

「んぁ……。あれ?」
 目を覚ましてみると、自分の部屋にいることがわかった。
 しかし僕が寝ていたのは寝室兼書斎の奥の部屋じゃなく、リビングダイニング……というほど広くはないけど、そこのソファでだった。
 頭が重いことから考えると、どうやら昨日はお酒を飲んだらしい。お酒はそんなに強くない上、身体に回るのも早いなら、頭に回って記憶が曖昧になることも多いからできるだけ飲まないことにしてる。昨日も誰と飲んだのか憶えていなかった。
 そんな状態なのに服はパジャマに着替えてることを不思議に思いながら、僕はソファから立ち上がって寝室に向かった。
「――」
 飲んで記憶を失った日の翌日、というのは、よく冗談で交わされる話があるものだ。いわゆる、「起きてみたら隣に見知らぬ女性が寝ていた」というものだが、たいていそんな冗談が普通で、現実として起こることはそれほどない、はずだった。
 ――なんでこう、ありきたりの展開なんだ……。
 隣で寝ていたというところが違ったが、本来僕が寝ているはずの寝室のベッドには、下着姿の女性が眠っていた。
 夜は暑かったのか毛布もほとんど身体にかかっていず、寝相が悪いらしくまとめてもいない長い髪はベッドの上で乱れまくっていた。
 声すらかけられずに突っ立っている僕は、露わになった肌に目を吸い寄せられるよりも先に唖然としていた。
 ――なにがあったんだ? 昨日は。
 まだ重さを感じる頭を振りつつ昨日の夜のことを一生懸命考える。いくら酒に酔っていたからと言って、僕が女を引っかけて部屋に連れ込んだなんてこと、本当にしたんだろうか?
「ん? あ、あぁ。おっはよぉ〜」
 ちょうどそのとき目を覚ました女性。身を起こした彼女は、サイドテーブルになぜか置かれている来客用の灰皿の方に手を伸ばし、その隣にある煙草の箱とライターを取った。起きあがったことで胸の谷間が僕から丸見えなのを気にする様子もない。けだるそうなゆっくりとした動作で箱から煙草を一本取り出してくわえ、火を点けた後ひと息ふかす。
「どうかしたの? 幸伸。これでも私、女だよ? そんな風にじっと見つめられると恥ずかしいんだぞ?」
 言葉とは裏腹に恥ずかしがる風もなく、彼女は乱れた髪を片手で整える。
「なぁに見てんのよ。もしかして酒が入ると記憶が飛ぶクセ、治ってないの? 私だよ、私。し、の、ぶ」
 ――しのぶ。
 その名前が頭の中に染みわたった瞬間、僕は彼女のことを思い出した。
「あぁーーっ」
「ってぇ、ビックリするじゃない。昨日とおんなじ反応するんじゃないわよ。煙草の灰、ベッドに落とすところだったでしょ」
 言いながら微笑みを浮かべる彼女は、松原しのぶ。僕の二歳年上で、父親の転勤で引っ越すことになった中学一年のときまでよく一緒にいることが多かった幼なじみだ。
 引っ越し以来ずっと会ってなかったはずだから、彼女と最後に会ったのはもう十四年前ということになる。幼なじみで友達以上の関係にあったわりに手紙のやりとりすらなかった彼女のことを、よくそんな久しぶりでわかったものだ。思い出してみれば昨日の夜もそれを感じつつ、いまもまた同じことを感じていた。
「――えぇっと、久しぶり」
「やっぱり記憶が飛んでたんだねぇ。まっ、とにかく、久しぶりっ。私もよくわかったと思うけど、幸伸も憶えててくれたんだね」
 煙草を吸い終えた彼女は、昔と変わらずどんな格好でも恥ずかしがることなく思い切り伸びをする。顔を赤くして視線を逸らした僕のことをニヤニヤした笑みで見ながら、口を開いた。
「昨日のこと思い出したってことは、昨日頼んだことも憶えてる?」
 お酒で飛んでいた記憶はだんだんと思い出されていっていた。
 しのぶに再会した昨日、食事がまだだということを言うと、彼女はせっかくだからと言って僕を半分無理矢理呑み屋に連れ込んだ。頼みというのは、その酒を飲んでいるときに話していたこと。気まぐれに関東の方に出てきてみたはいいが、懐が寂しく泊まる場所を探していて、僕の部屋に少しの間泊まらせてくれないか、と言うことだった。
「うん、それは構わないよ」
「よかったぁ。そんなに長くいるつもりはないけど、よろしくぅ。泊めてもらってるくらいだから、炊事洗濯くらいはして上げるよ」
 僕の言葉に笑みで答えを返すしのぶ。
 僕は二十七で、しのぶは二十九。いくら小学校の二年くらいまでは裸を見せあった仲だと言っても、さすがに毛布で身体を隠して欲しいと思いつつ、僕は視線を逸らしたまま頷いた。
「あぁ〜、幸伸」
「なに?」
「そろそろ、出勤の準備の時間じゃないの?」
 そう言われてふと壁掛けの時計に目を向けてみると、七時十五分を過ぎていた。
「まずいっ! 朝御飯を食べてる暇がないっ!」
 叫び声を上げつつパジャマを脱ごうとして気がつく。にやけた顔のしのぶが僕のことをじっと見ていた。
「とっ、とりあえず僕は外にでて他の準備をしてるから、しのぶ、まず服を着といて」 「ほいほい。――あ、じゃあとりあえず、今日は飯でもつくって帰りを待ってることにするよ」
「わかった」
 答えだけ返して顔を洗うために、僕は寝室の扉を閉めて洗面所へと向かっていった。

 慌ただしく準備を終えた僕は、鞄とネクタイをひっつかんでマンションの階段を駆け下り、自転車置き場へと飛び出した。低くなった日差しのまぶしさに目を細めつつ走りだそうとして、立ち止まる。
 ――気まぐれって言ってたけど、本当だろうか?
 昔から彼女は気まぐれに行動することが多かったから、本当に気まぐれで出てきた可能性も否定できない。その真意はしのぶの性格からして本人が話してくれない限り、訊いたところで答えてくれないだろう。それは話の流れを読みつつ、上手く聞き出すしかない。
「でも……」
 僕はいまさっき出てきた部屋の扉を振り返り、見上げる。
 十四年振りでよくしのぶのことをわかったものだと、本当に思う。近くに住んでた頃はよく見ていた顔だし、ちょっとつり上がった目は特徴的だったけど、実際今と昔じゃ印象が違っていたのは確かだった。
 心の中に生まれる不安。
 あのしのぶがしのぶ本人であることには、それを否定できないほどの確信があった。気まぐれな性格はあの通りだし、不安を感じる要素なんてあるはずがない。
 それなのに僕は、なにに対してでもない不安を胸に抱いている。それの正体を考えようとしてるのに、なにも見えてくるものはなかった。
「これから先考えればいいことか」
 そうひとりごちて、僕は駅に向かって歩き始めた。


「はぁ……」
 コンビニのおにぎりを囓り、ある程度噛んだところでお茶を飲んで胃に落としていく。そんな一種の作業が終わるごとに、僕は溜め息を漏らしていた。
 昼休みが始まってすぐに昼飯を買いに行ったのだが、もう休みの時間も終わりというのに食べ終えられずにいた。
「はぁ……」
 また溜め息をついて、僕は残りのおにぎりを口の中に放り込む。
 すっかり夏の気配が消えた空は、気持ちまで澄み切ってきそうなほど晴れ渡っていた。日差しはあるけど緩い風が吹いてくる屋上はちょうどいい気温で、このまま昼寝でもしたいくらいだった。
 そんな場所にいるというのに、僕の気持ちは地の底まで沈み込んでいる。
 今日の午前中は、企画の進行状況なんかを打ち合わせるための会議が行われた。本会議はまた来週あるが、今日のそれが企画部内で進められている企画すべてを初めて部長の前で発表する時間となっていた。
 溜め息なんて漏らしてることからもわかる通り、それは僕にとって最悪の時間となった。
 僕が発表を始めて少し経つと、会議室に同席した同僚全員から向けられていたのは冷たい視線だった。発表そのものは終えることができたものの問題点などの討議が行われることはなく、部長だけが口を開いた。
「いい企画なのはわかった。しかしそれは、会社全体で進めるべきものだ。それから、君がいま、絶対にやらなければならない企画ではない」
 その言葉の意味は明らかだ。
 部内で僕と琴絵がつき合っていることを知らない人間はいない。そして今回の計画成功後、彼女との婚約が認められることもまた、噂に登っているはずだ。
 つまり部長は、「琴絵との婚約が控えたこの時期に冒険をする必要はないだろう」と言っているのだ。
 けっきょく部長のその言葉だけで、発表は次の企画へと移っていくこととなった。
「はぁ」
 もう一度溜め息を漏らし、どうにか昼食を食べ終えた僕は残っている飲み物を喉へと注いでいく。
「ちょっといい?」
 そんなときやってきたのは、ここ最近ぜんぜん話をしていない琴絵だった。
「いいけど……」
 あの海辺のレストラン以来仕事のこと以外でなにも話していなかったから、話しづらい。なにを言われるのかと、僕は思わず息を飲んでいた。
「あの企画、どうして出したの?」
「それは……」
 琴絵から向けられる視線。そこには不安の色が含まれている。
 ――琴絵もそうなのか。
 なにかフォローになる言葉を返そうと思った。でも、自分の夢をごまかすのは嫌だった。
「夢なんだ、僕の。あれだけは、絶対今回の計画で通したい。そう思ってるから――」
 そこまで言ったところで琴絵の顔を見ると、彼女は暗い表情をしていた。彼女の気持ちはわかるような気がしたけれど、はっきりとはわからなかった。
 琴絵がゆっくりと口を開く。なにを言われるのかと心で構える僕だったけど、すぐに口を閉じた彼女は鼻をひくつかせた。
「ゴメン、また今度」
 突然眉をしかめた琴絵は、そのままなにも言わずに行ってしまった。
 どうしたんだろうと思い、僕も琴絵がしたように周りの臭いを嗅いでみた。鼻に微かに残ったのは煙草の臭い。スーツの袖を鼻に近づけて見ると、しのぶの吸っていた煙草の臭いがしっかり染みついているのがわかった。

「くっくっくっくっくっ」
 それを見ていたのは偶然ではなかった。
 激しいものではないが、琴絵と幸伸の口論。ふたりの間に生まれている確実な亀裂。  話している内容までは聞こえない。自分がいることをふたりに気づかれない程度には距離を取っていた。それでもなにを話しているのかくらい想像ができている。
 午前中に行われた会議は、ふたりの間にどれくらいの影を落としただろうか?
 伏し目がちに琴絵が幸伸の前から走り去る。
「くっくっくっ」
 周りの人間に気づかれないように笑みを抑え込むのは、意外に難しいことだった。


 ――まずかったかな。
 篠崎プランニングという会社は廊下に設置された喫煙所以外で煙草を吸うことは禁止されていた。同時に、第一企画部には煙草を吸う人間の絶対数自体が少なかった。
 近くで煙草を吸っている人間がいれば服にその臭いがつくのは当たり前だけど、近くってだけならそれほど強く染みつくことはない。煙草嫌いな琴絵だから敏感に気づいたのはわかる。それにしても僕の服についていた臭いは、ヘビースモーカーと呼べるくらいの量を吸うしのぶを目の前にしていただけに、かなり強いものだった。
 もしかしたら琴絵に僕の周囲に起こった変化を気づかれたかも知れない。そう思いながらマンションのエレベータを下りて自分の部屋に向かう。
 ――さすがにしのぶが僕の部屋にいるなんてことまで気づくことはないだろう。
 なんて楽観しつつ、僕は「ただいま」という声とともに玄関に入った。
「あれ?」
 部屋には電気が点いていたが、開けっ放しの扉の向こうのリビングダイニングにはしのぶの姿が見えない。靴を脱いで寝室の方にも行ってみたけど、そこにも彼女の姿はなかった。
 ――どこに行ったんだ?
 胸騒ぎがした。
 洗面所から風呂場まで、部屋の中は全部探してみたけどしのぶの姿はない。電気が点いてるくらいだからいた形跡はある。だけど彼女は荷物ひとつなくやってきていた。彼女がいることを証明するような見える証拠はない。
 頭の中に渦巻くのは不安。それに押しつぶされるように、僕はソファに座り込む。
 なぜそんなことを感じるのかわからなかった。ただしのぶがいないという事実が、僕を不安にさせていることだけはわかった。
「探さないと」
 うわごとみたいに僕はつぶやきを漏らす。
 昨日再会したばかりで、十四年も会ってなかった彼女にどうしてこんなに不安を感じるのかわからない。けれど僕の中には彼女を捜さなければならないと思う気持ちが生まれている。とにかくソファから立ち上がって、スーツのまま着替えもせずに部屋を出た。
 ゆっくり降りていくエレベータに苛立ちつつ外に飛び出し、辺りを見回す。いつ出ていったのかもわからない上、街灯の少ない道路ではしのぶの姿を見つけることはできない。走りだそうと身構えるが、関東に出てきたしのぶが行きそうな場所なんて思いつきもしなかった。
「しのぶが行きそうな場所……」
 吹き出しそうになる不安を抑えつつ、僕の知ってる限りの彼女の性格から行きそうな場所を考える。
 思い出されていく記憶。
 しのぶは高いところが好きだった。山に囲まれていた僕たちの故郷は、いま住んでるこの辺りに比べると木がたくさんあって、しのぶはよく木登りをしていた。
 スカートを履いてようとなんだろうと高いところに登るのが好きだった彼女。木登りが下手だった僕は、彼女のところまで行けずによく泣いていたのを思い出す。
「高いところか」
 つぶやきながら僕は手近にある高いところ、マンションの屋上の方に目を向ける。
 すると低めにフェンスが張られた屋上に、小さな赤い光があるのが見えた。
 ――しのぶか?
 思ったときには駆けだしていた。
 屋上までは行っていないエレベータで最上階まで上がり、その後は階段で上に上がっていく。大きく扉を開け放って屋上に出ると、そこにしのぶがいた。
「なんだ幸伸、帰ってたのか」
 何事もなかったかのように言い、吸っていた煙草を携帯灰皿の中でもみ消すしのぶ。微笑みを浮かべて近寄ってくる彼女に、僕は無意識のうちに涙を流していた。
「部屋に煙草の臭いを染みつかしちゃ悪いと思ってさ――。って、おい! どうしたんだ? お前の泣き虫はいまも変わってないのか?」
 茶化すように言葉を優しげな声で言った彼女は、僕の頭を抱き寄せる。そうされてそれまでの不安が消えた僕の目からは、涙が止めどもなく流れていた。
 昔はよく、泣きやまない僕をしのぶは抱きしめてくれていた。あの頃は彼女の方が背が高かったけど、いまでは僕が屈む必要があった。それでも昔と変わらない温かい肌を感じて、僕の涙は止まらない。
「簡単だけど、食事できてるよ。食べるでしょ?」
 僕はその問いかけに、微かに頷いて応えることしかできなかった。

* 3 *

「へぇー。そんなことがあったんだ」
 サラダを口に運びながらしのぶが言う。
 朝になり、夕食の残りなんかで朝食を摂りつつ、ちょっと早めに起きた今日、しのぶに昨日の会議でのことなんかを話した。
「そうなんだ。それで……まぁ、ちょっと悩んでたんだけどね」
 食事の手を止め、僕はうつむく。
 同僚の反応と部長の言葉によって、これ以上企画を詰めるかどうか悩んでいた。
 確かに部長の言う通り今回の計画でやらなければならない企画じゃないのはわかってる。だけどこの先こんな機会がいつあるのかわからない。――それに、琴絵と婚約した後、もう一度こんな企画が提出できるかどうか、自信がなかった。
「普通そんなもんだろ? 琴絵ってぇ娘が社長令嬢なんだから、その相手って思えば誰だってそんな企画出されたら嫌な顔するさ」
 しのぶは僕と違って相変わらず現実主義者だ。確かにしのぶの言う通りだと思う。
 でもやっぱり、僕はいまあの企画を通したいと思っている。
「社長さんが娘の結婚相手を決めつけないだけマシじゃないか。篠崎プランニングって言ったらそれなりの大きさの会社なんだろ? それなりにやってりゃ社長の椅子が待ってるってぇのは、降って湧いた幸運みたいなものだぞ? 普通だったらどんなに能力があっても得られないくらいの、な」
「……そうだね」
 琴絵とのことも、やっぱり考えている。夢と琴絵とどっちを取るのか、と問われると、答えを返すことができない僕がいた。
「ごちそうさま」
 昔からそうだったし、期待はしてなかったけど、やっぱりしのぶはしのぶだ。けっきょく彼女の口から励ましの声が出てくることはなかった。
 食欲がないままリビングテーブルから立ち、残っていた出勤の準備を終えて玄関で靴を履く。
「ほれ」
 背後から伸ばされた包み。結び目の隙間から見える箱の様子から、それは弁当だった。
「え?」
「今日は幸伸よりちょっと早くに起きてたからね、つくっておいたよ」
 振り向いたところで押しつけられた包みを受け取る。包んでる布を通しても、それは暖かさが感じられた。
「それでもお前は会社に行くんだろ?」
 しのぶはそう言って目を細める。
 なにを言われたのかよくわからなかった。でも彼女の視線に、言葉以上のものを感じ取った僕は、その意味を考える。
 ――しのぶはたぶん……。
「うん。やっぱり行くよ」
 少しの間目を瞑って考えた後、僕は答える。しのぶに対する答えとしては、たぶんそれが一番だと思ったから。
「そうだろ?」
 言ってしのぶはにやりと笑う。僕もそれに笑みを返した。
「それじゃ行ってくる」
「ほいっ。じゃあまた夕食でもつくりながら待ってるよ」
「わかった」
 さっきまでの暗い気持ちも吹き飛んで、僕は気分一新させて玄関を出た。


 部長は腕を組み、うなり声を上げた。
「わかるでしょう? 部長も。世界はそのうち深刻なエネルギー不足に見舞われます。たとえ天然ガス資源利用を増やしていったとしても、これ以上環境を破壊するわけにはいかないでしょう。だから、宇宙にエネルギーを求めるべきなんです」
 言葉に熱を込めて僕は部長を説得する。
「月はエネルギーのもとになる資源があるという観測は出ているんです。ただ、本格的な開発は行われていません。チャンスなんです。これまで取り引きしてきた会社の観測機器を使えばほぼかなり精密な観測も行えます。今回の計画を機に会社全体で進めていけば危険度も低くなるはずでしょう。どこかに先を越されてしまうより、いま、この会社でやるべきだとは思いませんか!?」
 デスクに乗りだした僕の身体に押されて、部長はわずかに身を引いた。
 しのぶの言葉によって元気づけられた僕は、昨日言われたことも気にせず部長を説得する手段に入っていた。いまだ渋い顔をしている部長だが、まずここから切り崩して行かなければ僕の企画が採用されることはほとんどない。
「しかしだな、やはりこれほど大きくなる可能性のある企画の場合、社長の了承がなければ採用するわけにはいかんのだよ」
「わかっています。だからそれを社長に訊いてほしいんです!」
 いつもと違い「社長」という言葉でも引かない僕に、部長は目を見張る。おそらく同僚たちも昨日とは違う僕の様子を見てるだろう。――そして、琴絵も。
「社長は君の有能さを認めているんだよ。だから今回の計画はまぁ、そういうことになると決まっているんだし。そんな君がこんな企画を出したと告げたら、社長はなんて言うだろうね」
「そのことはいまはいいんです。いまやるべきだと思ったから検討を進めている企画なんですから、社長の了承が必要と言うならばそれを問うてきて下さい」
 再びうなり声を上げ、部長は考え込み始める。僕は彼の答えをじっと待つことにした。 「――君の熱意は買おう。だが君は自分の想いに流されているんじゃないか? やはり危険が大きすぎる企画であることには変わりないしな」
「だから会社全体で――」
「わかっているっ、わかっているよ。しかしだな、どうせ企画会議で採用された企画は社長も目を通すことになるんだ。もう少し検討を進めてからにしないか? な?」
「……わかりました」
 どうやら部長はここで折れるつもりはないらしい。この人のことだ、これ以上なにを言っても無駄だろう。この場は引き下がって、もっと説得に必要な材料を集めることを決めて自分の席に戻っていった。
 ――確かに、流されてる部分はあるよな。
 企画書を見返しつつ、僕は部長の指摘について考えていた。
 幼い頃から僕は空や宇宙が好きだった。空を飛んで幸せを振りまきたいと思ったのも、たぶんそれへの憧れがあったからだと思う。そしていまの企画も、それの延長線上にあるものだろう。
 けれど僕は、いま、絶対にやりたい企画でないことはわかっていても、自分の手で、いま実現したいと思ってる。
 部長がこの企画を通すつもりがないのだとしたら、その考えを変えなくちゃいけない。  ――どうにかできないかな。
 方策を練ろうとしていたとき、昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「幸伸、話があるんだけど、いい?」
 それと同時にやってきた琴絵が、自分用の小さな弁当箱を示した。
「いいよ。屋上に行く?」
「そうだね。あ、昨日はゴメンね」
「こっちこそゴメン」
 言って僕はスーツの袖を自分の鼻に寄せて匂いを嗅ぐ。
 昨日とは違うスーツを着てきていたし、匂い消しも使ってたから、煙草の匂いがすることはなかった。
「今日は匂い、大丈夫だから」
 僕が笑みを浮かべると、いつもの屈託のないものじゃなかったけど、琴絵も微笑んでくれた。
「ちょっと待って。書類だけ整理して行くから」
 部長を説得するために色々と材料を出していた机の上を整理した僕は、一番下の引き出しからしのぶにつくってもらった弁当を取り出す。
 ――しまった!
 思ったときにはもう遅い。
 明らかに手作りとわかる弁当の包みを見て、琴絵は驚いたような顔をした。適当な説明の言葉を思いつく暇もあらばこそ、「今日は他の人と食べる約束してたんだ」と言って彼女は僕の前から行ってしまった。
「くそっ」
 莫迦みたいなミスに僕は小さく舌打ちする。
 琴絵にあわせて外で何か買ってくることでも、親しい隣の部屋の人につくってもらったとでもなんとでも言い訳はつくはずだった。騙すことにはなるけど、いまの僕と琴絵の関係のことを考えれば、しのぶのことは隠しておいた方がいい。しのぶのことは後で折を見て説明すればいいことなんだから、それくらいの方便は使うべきだった。
 ――琴絵とはちゃんと話をしておかないとな。
 立ち上がろうとしていた僕は席に戻り、しのぶのつくってくれた弁当の包みをほどき始めた。


「どっからこんなに人が出て来るんだろうねぇ」
 なんとなくのんびりとしたような口調でしのぶが言う。
「まぁ、休日だしね」
 その声に僕は苦笑いで答えるしかなかった。
 琴絵と出掛ける用事もなかった日曜の今日、朝突然しのぶが服を買いに行こうと言い出した。まぁ、足りないときは少しお金を貸してくれという話ではあったが、会社や琴絵とのことがあって胸が詰まっていたから、ちょうどいい気晴らしになると思ってデパート街に繰り出した。
 ――しのぶなりのやり方だよな。
 しのぶは昔から口数は多い方じゃない。口を開くとクールだとか、ひどいときには冷酷なんて言われるくらい現実的な言葉が出てくる。けれどそれが彼女のすべてじゃない。今日のように突然僕を連れだしたのは、しのぶなりに僕のことを見ていてくれるからだ。  休日のデパート街というと、さすがに人の数が多い。僕やしのぶが住んでいた田舎と違って、人と人の隙間を縫って歩かないといけないくらいだ。その中をしのぶは微笑みを浮かべつつ、踊るような軽やかな足取りで歩いていく。
 思ってみれば、こうしてしのぶとふたりで歩くのも十四年振りだ。昔は畦道とまでは言わなくても、関東の住宅街ほど開けてない道をふたりでよく歩いてた。そしていまは、こうして人通りの多い街を歩いている。
 ショウウィンドウに並んだ服を眺め、下げられた値札に軽く唇を噛み、秋物のバーゲンではいっぱい服を抱えて試着室に入っては、いろんな格好を見せてくれるしのぶ。着替えようの服とかを買い終えてひと休みのために入った喫茶店では、微笑みを浮かべ合いながら昔の話で盛り上がった。
 十数年振りなのに、今も昔も変わらない僕としのぶの関係。大雑把と見えるほど気さくな彼女だけど、自分の周りのことをよく見てるのも変わってない。
 けれどやっぱり、僕は二十七で、しのぶは二十九だ。
 僕の目の前の席で、頬杖をつきながらストローでジュースをすする彼女。
 面影は昔のままでも、僕もしのぶもずいぶん変わった。しのぶはずいぶん――女らしくなった。物心ついた頃から彼女と一緒にいる僕がそれを感じるくらいに。
 ――思えば僕は、いつもしのぶに憧れてたんだよな。
 男を相手にしても、たとえそれが年上であっても、昔から一歩も引くことがなかったしのぶ。泣き虫だった僕は、そんな彼女にずっと憧れ続けていた。
「ん? どうしたの? 私の顔になにかついてる?」
 いつの間にかしのぶの顔を見つめ続けていた。そのことで言ってくる彼女だけど、その顔は微笑んでいる。
 昔もしのぶといて楽しかったけど、いまも彼女と一緒の時間を楽しんでいた。
 ……少しだけ、その意味は昔と違っていたけど。

 手招きに寄せられて、わたしはそっちの方に寄っていく。
「ねぇねぇ琴絵、こんなのいいよね」
「あ、うん。そうだね」
 ショウウィンドウに並んでいるのはまだ秋口だというのに冬の服。感じのいいコートに一瞬目を引かれるけど、でもすぐにまたわたしの胸は暗いものに支配されていった。
 今日は同僚と前々から約束していた買い物でデパート街に来ていた。ちょっと高いものが多いけど、素敵な冬物の服があるのにわたしがそれに目を引かれるのは一瞬だけだ。  わたしの頭の中は、ずっと幸伸のことでいっぱいだったから。
 ――あのお弁当はやっぱり、誰かにつくってもらったものなのかな。
 この前見た手作りのお弁当。幸伸はそんなに料理がうまくないし、起きるのはたいていぎりぎりの時間で朝御飯もちゃんと食べてこないことが多いくらいだから、お弁当をつくってくることなんてないと思う。だとしたら誰かに、――女の人にでもつくってもらったんだろう。
 その前に彼の服から漂ってきた煙草の匂いも気になる。わたしの知り合いにも幸伸の知り合いにも煙草を吸う人は少ないはずだし、女の人で吸う人も、彼氏がいたり幸伸とは近くない人ばっかりだ。
 それでも彼の側にわたしが感じるのは女の人の影。幸伸に、他に好きな女の人ができたんだろうか。
 幸伸のことは、信じていた。つき合い始めてからずっと、彼はわたしを裏切らないでいてくれたから、彼のことはなにがあってもけっきょくは信じることにしていた。
 いまでもそれは変わらない。変わらないけど、不安は感じていた。
「どうしたの? 琴絵。今日はずいぶん暗いね」
「最近ずっとそうじゃない? 幸伸君となにかあったの?」
 沈み込んでるわたしに、一緒に買い物に来てる同僚の娘たちが心配そうに、でもどこか楽しそうに、声をかけてくる。
「うぅん、なんでもないって。ここ何日かですっかり寒くなったなぁとか思ってただけだよ」
 ごまかしの言葉を口にして、わたしは微笑む。「そうだよねー」と同意してる彼女たちの言葉を耳にしながらも、またすぐ幸伸のことが頭に浮かんできてしまう。
 ――あの言葉は、やっぱりやめておいた方が良かったのかな。
 この前のデートでかけた言葉。それは早くプロポーズをしてほしくてかけた言葉だった。
 幸伸は、わたしが見る限り第一企画部の中では一番仕事ができる人だ。今回の計画が成功したら、お父さんも彼との婚約を認めてくれると言ってた。だから心配するべきことはそんなにあるわけじゃない。
 けどわたしとしては、そんなお仕着せのことで婚約が認められるよりも、計画の成功なんかどうでもいいから、彼自身から早くその言葉を聞きたかった。
 それはたぶん幸伸も気づいてるんだと思う。けれど彼は答えを返してくれなかった。それにいまも返してきてくれてない。もしかしたらわたしは彼に負担をかけてしまったのではないかと、不安が胸を見てしてくる。
 人混みの中でひとり溜め息をついた。
「しのぶーっ」
 そんなわたしの耳に聞こえてきたのは、知ってる声だった。
 すぐに下を向いていた顔を上げて、辺りを見回す。
 いろんな声や音がしてるいまの場所だけど、よく知ってる声だから気づくことができた。あの声は、絶対に幸伸だ。
 ――いた。
 わたしがいる場所から少し遠い場所。歩いてる人の間に見え隠れしてるけど、幸伸が誰かに手を振ってるのが見える。
 彼の近くに誰がいるのかまではわからない。でもわたしが見てる幸伸は、あのレストランでのこと以来見たことがないくらい明るい笑顔だった。
 ――女の人がいるんだ。
 見えはしなかったけど、「しのぶ」という名前はたぶん女性のものだ。わたしに向けていてくれたような笑顔を、いまの彼はその女に向けている。
 身体が、震え始めた。
「どうしたの本当に。身体の調子でも悪いの?」
「そんなことないよ」
 本当に心配した声をかけてきてくれる声にどうにか答えを返すけど、身体の震えを止めることだけはできなかった。

* 4 *

 煙草をくわえたまま、にやりと笑みが漏れてくる。
『うん、そうなんだよー。今日の琴絵、なんかヘンでさぁ』
 受話器の向こうから聞こえてくる女の声。煙草の灰を灰皿に落としながらも、重要なことだけは聞き逃さない。
「どうヘンだった?」
『やっぱり最近、幸伸君と上手くいってないのかなぁ。久しぶりのショッピングだったのに、あの娘ぜんぜん暗かったんだよねー。いつもだったら莫迦みたいにはしゃいでるのにさ』
「へぇー」
 思っていた通り、幸伸と琴絵の関係はギクシャクし始めていた。これまでずっと遠目に見てきたふたりの関係だったが、予想通りいざというときになって幸伸の弱さが露呈した形だ。これを好機と言わずしてなにを言うのだろうか?
 しかし本格的に行動を起こすには、まだ少し早い。
『でもさ、どうして琴絵のことばっかり聞くの?』
 どうやら彼女の会話の矛先が変わってきたらしい。これ以上話をしている意味が失われたのを感じた。
「ちょっと急用を思い出したよ。またかける」
『あっ、ちょっと――』
 答えも待たずに電話を切った。
 いつの間にか短くなっていた煙草をもみ消し、顎に手を当てて考える。
 ――ふたりを、完璧に引き剥がす方法を考えないとね。


「で、ここにお前を呼んだ理由はわかっているな」
「いえ、わかりません」
 部長の言葉に真っ向から対抗してやった。
 今日、例の企画を本会議にかけられるよう準備を進めているとき、突然部長から声がかかった。そうして連れてこられた、この時間は使っていない会議室。部長の第一声はさっきの通りだったわけだ。
 ピクリと眉を跳ね上げ、それでも部長は自分を抑え込む。彼が座っているように、しれっとした顔で僕もまたなにも言わずに四角く組まれた机に並んでいる椅子のひとつに座った。
 もちろん、こんな風に呼びされた理由はだいたいわかっている。けれどなんと言われようと引き下がるつもりはなかった。
「わかっているのかね? 君は。いまが一番大事な時期なんだぞ」
「それはわかっています。もうまもなく本会議ですから、そのための作業に終われて夜もあまり寝ていない状態です」
「それとは違うっ!」
 ついに青筋まで立てて、部長は声を荒げ始めた。
「君にとって今回の計画はどんなものであってもいいはずだ。それより重要なのは、琴絵君との婚約のことだろう!」
「しかし部長――」
「口答えをするなっ! 幸伸君、君はどれほど恵まれた男であるかわかっているのか? 琴絵君と婚約すると言うことはつまり、ゆくゆくはこの篠崎プランニングを背負って立つ人間になるということなんだぞ。これだけの幸運を受けながら君はこれ以上なにを望む? それとも他に女でもできて、琴絵君との仲を反故したいとでも思っているのかね?」
「僕は別に――」
「先に俺の話を聞け!」
 会議机を拳で殴りつけ、荒れ狂う部長は僕のことを睨みつけてくる。
 怒りっぽいことは前から知っていたけど、初めて見るほどの部長の剣幕に、僕は思わず沈黙した。
「俺も気がつけば五十の半ばだ。もう一度気がついたときには、そこに定年が待ってるよ。この会社に勤めるようになって十五年、いまの第一企画部が発足すると同時に部長に昇進して、大抜擢なんて言われたもんだが、ここ止まりだ。俺には子供がたくさんいてな、一番下の息子なんて今年で高校入学だよ。他の息子や娘たちもなにかと金がかかる年頃だから、もっと上の役職について高い給料が欲しいっていつも思ってるんだ。でも俺は部長止まりだ。なぜだかわかるか? 俺には部長になるくらいまでの運しかなかったんだよ。お前のように社長令嬢と知り合いになれるような運がな」
 言葉を挟む隙も与えず、部長は言葉を続ける。
「わかってるのか? 君は。それだけの運を受けながら君はそれを捨てようとしているんだぞ? 確かにその運を受けるかどうかは受けられる奴が選ぶことだよ。でもな、その運がない俺みたいな奴から見れば、君みたいな人間は贅沢者だ。社長の地位以上に君はなにを望んでいるというのだ!?
 ……これは君のためを思ってのことだが、明後日の本会議のときには君の企画発表の時間は与えない」
「なんだって!」
「うるさいっ。座って静かに聞いていろ」
 叫んで立ち上がった僕の肩をつかんで無理矢理椅子に座らせ、赤く充血した目を近づけてきた部長はさらに言う。
「言ってるだろう、これは君のためだ。いつか必ずわかるときが来る。社長になれば必ずわかる。だから今回は収めろ。それにな、もし今回収めないんだとしたら、俺はそんな奴に社長になってもらいたくないんだよ」
 言いたいことだけ言って、部長は踵を返して会議室を出ていこうとする。
「待って下さい、部長!」
「うるさい、話はこれだけだ。君から聞くことはなにもない。今回の計画は君を主任とする。しかし、君の企画だけは通すことはない。以上だ」
 追いすがろうとした僕の目の前で、乱暴に扉が閉められた。会議室の中にひとり取り残された僕は、ただ呆然と立ち尽くす。
 ――今回がダメだとしたら、次はいつあるって言うんだ?
 琴絵と婚約したとしたら、それから先はこれまで以上にあんな企画を出せないようになってくるはずだ。場合によっては、配置換えが行われて、僕は企画部にはいられなくなるかも知れない。
 機会があるとしたら、それはもう今回しかないはずだった。
 ――しょせん、夢は夢だったのか……。
 さっきまで座っていた椅子に力無く腰を下して机に突っ伏す。一度伏せてしまった顔は、どうやっても上げられそうになかった。

 部長の言葉によって、その後僕はまったく仕事ができずにその日の勤務時間を終えた。
 同僚たちが残業しているのを横目に、これ以上進める意味のなくなった企画を放り出して、僕は社屋を出る。六時を少し過ぎたところだというのにもう外はすっかり暗く、そろそろコートがほしいと思うくらい肌寒くなっていた。
 明日辺りしのぶにでも頼んで秋冬物のコートを陰干ししてもらおう、なんて考えつつ駅に向かっていると、僕を待つかのように立っていたのは、琴絵だった。
「駅まで歩こ」
 そう言いながら、琴絵は歩みを止めない僕の横に並ぶ。彼女のために僕は少しだけ歩調を落とした。
 そのまま、僕たちはしばらく無言のまま歩いていった。
「まだあの企画に関わってるの?」
 唐突に琴絵がそんなことを訊いてきた。溜め息を漏らしたいのを抑え込み、その言葉に答える。
「もうあれはいいんだ。部長に却下された。採用は絶対してくれないってさ」
「そう」
 それを聞いてうつむく琴絵。そしてまた、僕たちの間には沈黙が訪れる。
 一週間前はまだ夏の跡が残っていたような気がするのに、街はもう秋の色しか感じなかった。僕たちを追い越していくサラリーマンやOLの足音にすら寂しさを感じるのは、果たして気のせいなんだろうか。
 遠目に駅が見えてくる。琴絵とは電車が違うから、もうすぐ今日のところはお別れだ。
「ねぇ、もうひとつ訊いていい?」
「ん?」
 駅の目の前まで来たところで、琴絵が僕の道をふさぐように立った。
「あの企画に、どうしてそこまで入れ込んでいたの?」
 悲痛な表情の琴絵が、僕の瞳を覗き込んでくる。
 ――琴絵も、部長と同じか。
「前にも言っただろ、夢だからだよ」
 僕はそう言い捨てて、琴絵を押し退け駅の構内へ足早に入っていった。

 琴絵を押し退けて幸伸が改札口に消える。取り残された琴絵が、寂しそうにうつむいていた。
 遠目に見ていて笑みが漏れるのを止められない。
 幸伸と琴絵の亀裂はどんどん広がっていっている。婚約の寸前まで行っておきながら、別れの兆候すら見え始めていた。
 しかし、まだ関係の修復がないとも限らない。ふたりを引き離すために、ここは決定的な方法が必要だろう。
「おっと」
 幸伸に遅れるわけには行かない。いまだ琴絵は立ち尽くしていたが、先回りするためにタクシーを止めた。


「ふぅ」
 一回の乗り換えを交えつつ一時間と少し、電車に揺られ続けて到着した駅の改札を出たところで溜め息が出た。
 住宅街とあって小さな駅のわりにそれなりの人たちが駅の出口に向かう中、僕もわずかにうつむきながら歩いていく。
「よっ、幸伸。元気ないねぇ」
 声とともに肩に置かれた手。顔を上げてみると、駅の構内を出たところにいたのはしのぶだった。
「ほれほれ、戦利品だ。半端で取ってきたもんばっかりだけどね」
 しのぶが片手で抱えてる大きな紙袋には、インスタントを中心とした食料品なんかがいっぱいにつまっていた。
「パチンコ?」
「そそっ。まぁ、家でじっとばかりしてらんんないからちょこっとそこのとこでやってたんだけどさ、思ったより回ってね。懐の方もちょっと潤ったよ」
 そう言って満面の笑みを浮かべるしのぶ。さらに彼女は、
「せっかくだから飲みに行こうぜ」と僕の腕を取った。
「いいよ、僕は。お酒はあんまり――」
「大丈夫だ、って。今日は私のおごり。思いっきり飲んでもいいよ」
 会社や琴絵のことで元気がなかった僕は、しのぶの誘いをそれ以上断ることができず、彼女に引っ張られていくことになった。
 そうしてやってきた串焼き屋。まだ夕食時間を少し過ぎたくらいで人は少なく、誰にも邪魔されずにしのぶとふたり、酒を酌み交わすことになった。
「いろいろ悩みがあるもんだね」
「そうなんだっ、そうなんだよ……」
 もう僕はどれくらい飲んだだろうか。はっきりとは憶えていなかった。頭に酒が回って気分が浮き上がってるのを感じつつ、どこか冷静な自分が会社でのことや琴絵のこと、そして夢なんかのことについて話したのを憶えていた。
「あそこじゃ僕は、もうダメかな」
「なぁに、幸伸。昔は夢の話ばっかりしてたって言うのに、ずいぶん弱気ねぇ」
「でももう、僕にはどうにもできないよ」
 コップに半分ほど残っていた日本酒を一気に飲み干し、深く息を吐く。
 会社のことも琴絵のことも夢のことも、僕にはもう全部が手詰まりとしか思えなかった。なにをやっても上手く行きそうになくて、これ以上どうにもできない気がしていた。
「昔に戻りたいよ。しのぶと一緒にいて、夢を話してた、あの頃に戻りたいよ、僕は」
「戻れるわけがないでしょ」
 泣き言になってしまった僕の言葉に、琴絵は鋭く突っ込んでくる。
「時間はどうやっても戻せないわよ。たとえ戻せたとしても、また同じように進むんだったら、同じことを繰り返すんじゃないの? だったら意味ないでしょ。いまは今しかないの。つまづいてようと泣いてようと、昔に戻れないんだったら、いまこれからやられることをやるしかないでしょ」
「……そうだね」
 やっぱり、僕の目の前にいるのはしのぶだ。
 なんだか妙にそのことを感じてしまう。
 彼女は人を励ましたりしない。元気づけたりしない。口から出てくるのは「現実」だけ。  でもそれで良かった。慰められるよりも、元気づけられるよりも、現実を見据えてまた歩いていけるなら、そのときだけの優しい言葉よりも力がある。
「なにもできないなんてことはないもんだよ。いまを良くしていく方法が、必ずね。もしそれが見つからないんだったら、いまを捨てて新しいことを始めるのも、なにもしないでいるよりいいことでしょ? ――で、幸伸はいまなにができるのか、なにがしたいのか、しっかり考えなさいよ。別に私は泣き言を聞きに酒に誘ったわけじゃないわよ」
 しのぶに言われて考える。自分にできること、自分がやりたいことを。
 酒が回って動きの鈍った頭の中から出てきた言葉は、自分でも意外な言葉のように思えた。
「しのぶ、僕と一緒に暮らしてくれないか?」
「……」
 自分自身で驚いていた。まったく予想外の言葉が自分の口から出ていた。
 けれど言った後で後悔はない。むしろ、手詰まり状態のいまよりも、言葉の通りしのぶと一緒に暮らせるなら、いまの自分よりいい自分が見つけられそうな気がしていた。
「僕たちの故郷に帰って、ふたりで暮らさないか? 別にそこでなにかしたいわけじゃないし、家業が残ってるわけでもないけど、でも、僕はもう疲れたよ。都会の生活は僕にはあわなかったみたいだ。だからしのぶ、僕と一緒に暮らしてくれ」
 一度目よりもはっきりと、僕はしのぶに向かって自分の意志を告げた。
 顔を上げ、しっかりとしのぶの顔を見る。僕の目を見つつ口をつぐんでいた彼女だけど、しばらくして答えを返してきてくれた。
「そんなことしたところで、昔に戻れるわけじゃないよ」
「わかってる」
「また夢を追いたいなんて思うかも知れないんだよ」
「……そのときは、また新しく始めることにする。もちろんそう思ったときはしのぶに相談するよ」
「酒の勢いなんかじゃ、ないよね?」
「絶対に違う」
 そこで言葉を止め、目を瞑ったしのぶ。一瞬だけ間をおき、ゆっくりと目を開けた彼女は言った。
「だったら、私はそれでいいよ」

* 5 *

 ――幸伸にはやっぱり……。
 そこまでで考えが止まる。それ以上考えることができなくなる。
 始業の時間の三十分前。まだあんまり同僚の人たちが来ていないこの時間、さすがに幸伸はまだ来てない。
 誰かの足音が近づいてくるごとに自分が座ってる席から顔を上げてその人が誰なのか見て、幸伸でないことを確認しては溜め息を漏らしてばかりいた。
 彼が企画のことで悩んでるのは知ってる。でも最近の彼に見える行動なんかを含めた変化の裏に見えてくるのは……。
 やっぱりそれ以上考えられなくて、わたしは自分の唇を軽く噛んだ。
 幸伸とじっくりと話したいと思う。悩みを聞いて上げたいと思うし、それにわたしから話したいと思うこともあった。
 けど、ひとりで悩んでる彼に話しかける勇気がわたしにはない。
「ふぅ」
 漏れていくのは溜め息。机に頬杖をついて、わたしはただ溜め息を漏らしていることしかできない。
 彼に話しかけることも、彼の助けになって上げることもできない。
「琴絵ちゃんらしくないなぁ」
 わたしらしくなく机に突っ伏していると、いつの間にやってきていたのか、利哉に声をかけられた。
 机に手をついて、両腕の中から少しだけ上げたわたしの顔を覗き込んでくる利哉。むっと煙草の匂いが漂ってきて、わたしは顔をしかめた。
「最近暗いね、琴絵ちゃん」
「そんなことないですよ。ちょっと疲れているかも知れませんけど」
「そうかな? 悩み事でもあるんじゃないの?」
 利哉の言葉にわたしは眉もしかめる。最近のわたしたちの様子を見ていればそれはわかることだと思うけど、いったい彼はなにが言いたいんだろうか?
「たとえば、幸伸のことでとか」
「……」
 嫌らしい笑みを浮かべてる利哉に、わたしはなにも言い返さず、彼のことを睨んだ。
「そんな顔しないでくれよ。これでもいい情報を持ってきてやったんだぜ。幸伸のことだよ。聞きたくないか?」
 いったい利哉が幸伸のなにを知ってるって言うのか。利哉の持ってくる情報なんて、いつもたいていデマだから、知りたいと思ったことなんてなかった。
 ……でも、幸伸のこととなると知りたいと思ってしまう。
「ここで言うのはちょっとなんだからね。あっちで話そう」
 ――またどうせどうでもいい噂を吹き込むつもりでしょ。
 そう考えてるのに、笑みを浮かべてそう言う利哉の誘いを断り切れず、わたしは席を立っていた。


 タイムカードを押して軽い足取りで自分の席に向かう。鞄を開けながら正面の机を見てみると、始業十分前近いのに琴絵の姿はなかった。
 ――でも、もうそれはいい。
 僕はしのぶと一緒に行くことに決めた。琴絵のことは……なにかしら決着をつけないといけないけど、それだけだ。
 僕は故郷に帰る。琴絵とは別れて、しのぶと一緒の生活を始める。
 そんなことを考えているうち、鞄から書類を出す手が止まってしまっていた。
 割り切ったつもりでも、琴絵のことはまだ頭の中に残っている。しのぶとの生活は期待しているけども、琴絵のことを割り切れないでいた。
 ――どう話をしよう。
 そんなことを考えながら、僕は必要な書類を出して鞄を机の上から下ろした。
 今日からやるべき仕事は、残務処理だけだ。しのぶと一緒の生活を始めるために、僕はこの会社を辞める。そのための準備をしておかなければならない。
 そんなことを考えているとき、僕の方に向かって歩いてくる甲高い足音が聞こえてきた。
「幸伸、ちょっと」
「え?」
 僕が振り向く前に、琴絵が僕の腕を取って引っ張ってきた。意外に強く込められた彼女の力に、僕は身体ごと振り向かされた。
「話があるの。来て」
「でも、もうすぐ始業時間だよ」
「わかってるわよっ。部長はどうせあと十分は来ないでしょ。来て!」
 彼女らしくなく荒っぽい口調に僕は驚く。なにがあったんだろうと思うけど、でも僕の方からもしのぶとのことで話があったから、彼女に腕を引かれるまま、廊下へと出ていった。

 連れてこられたのは第一企画部の部屋からそう遠くない袋小路になってる廊下の隅だった。
 部長みたいに空いてる会議室を自由に使えない僕たちみたいな社員は、ちょっとした秘密の話なんかがあるとよくここを利用している。そんなような、あんまり人が来ない場所だった。
「幸伸、『しのぶ』って誰?」
「え!?」
 なんで琴絵がしのぶのことを知っているんだろうか。しのぶが僕の部屋にいるようになってからその名前を彼女の前で言ったことはないはずだったし、もし言うことがあったとしても中学時代かそれくらいだ。いきなり彼女がその名前を、いまになって出してくるなんて思えなかった。
「えっと、それは……」
「ごまかさないで! わたし、聞いちゃったの。幸伸に、わたしの他に女の人がいるってことを」
「……誰から?」
「誰からなんてどうでもいい! それにわたし、知ってるのよ。この前の日曜、デパートの前で幸伸、その女と会ってたんでしょ? あなたがその女の名前を呼ぶのを、わたしは聞いたのよ!!」
 まさかあの日、あそこに琴絵がいるなんて思わなかった。ごまかし切れない。そう感じて、僕は肝を据えた。
 少しの間目を瞑って気持ちを整える。軽く深呼吸をした後、僕は琴絵に向かって言った。 「しのぶっていうのは、僕の幼なじみだ。こっちに出てきて泊まる場所に困ってるって言うんで、いま僕の部屋に泊まってる」
「それだったら言ってくれればいいのにっ。そういうことだったらわたしだってヘンな気を回さなくて済んだのに!」
「違うんだ。それだけじゃないんだ」
 感情を露わにして言う琴絵の両肩をつかみ落ち着かせる。
 ――もう決めたことだ。いまがいい機会なんだから、言ってしまわないといけない。  疑問の顔を浮かべている琴絵に僕ははっきりと告げる。
「僕は、彼女と暮らそうと思ってる」
 一瞬呆然する琴絵。そしてすぐにうつむき、身体を震わせる。
 そんな彼女に僕は言葉を続けた。
「昔から憧れてた人だったんだ。もちろん会社も辞める。故郷に帰って、しのぶとふたりで暮らそうと思ってる。だから琴絵、僕は――」
 そこまで言ったところでキッと顔を上げた琴絵は、僕のことを睨んできた。
 初めて見るほど激しい彼女の感情の表れだけど、僕はその視線をしっかり正面から受け止める。覚悟はしていたことだから。
 しばらく見つめ合って、先に琴絵が堪えられなくなった。僕を睨みつける目から涙が溢れ出し、止まっていた身体の震えがぶり返して、表情が崩れていった。
「琴絵……」
 声をかけようとしたけれど、彼女にかけるべき言葉は思いつかない。口ごもる僕がなにかを言う前に、琴絵は僕の手を振り払って袋小路を出ていってしまう。
「……」
 遠ざかっていくヒールの高い足音。でも僕は、その後を追っていくことはしない。
 ――これで良かったんだ。
 そう思っている。しのぶとの生活が僕の幸せになるんだから。
 ――これで、良かったんだよな……。
 それなのに僕の胸に残るしこり。もう聞こえなくなった足音に、僕はなぜか泣きたい気がしていた。

 始業の時間は過ぎ、まもなく朝の部長会議を終えたうちの部長もやってくるだろう時間、俺は幸伸と琴絵との修羅場が展開されているだろう袋小路の方に向かっていた。
 幸伸がなにかボロを出さないかとあいつのことを監視してたりしたが、けっきょくなにも見つけることはできなかった。
 だから、でっち上げてやった。
 本当か嘘かなんて問題じゃない。要は幸伸と琴絵を引き離すための原因があればいい。
 それで今日の朝、そのことを琴絵に吹き込んでやったわけだ。そしたら思った通り、幸伸と琴絵は朝礼目前だというのにふたりで行ってしまった。
 後はその結果を見て動き方を考えればいいだけだ。
 袋小路がある場所まであと角をふたつ。大きな声で言い合ってるとしたらそろそろなにか聞こえそうな場所まで来たところで、俺は突然角を曲がってやってきた人間とぶつかりそうになった。
「ごめんなさい!」
 顔も上げずに言われたその声に、俺はそれが琴絵であることを知った。ぶつかるのを防ぐために出したはずの両手を、いいタイミングだとばかりに震えるその肩に掛ける。
「どうしたの? 琴絵ちゃん。なにかあったの?」
「利哉くん?」
 優しさを込めた声で声をかけると、彼女は顔を上げた。その目から流れているのは、涙。  ――やったぜ!
 思わず声に出そうになった叫びを心の中に収める。ここでボロを出すわけにはいかない。
「なにかあったの? 琴絵ちゃんを泣かすなんてひどい奴だ。俺で良ければ相談に乗るよ」
 俺がそうまで言ってやったというのに、琴絵は「ゴメン」と言って走り去っていってしまった。
 ――まぁ、焦る必要はないさ。
 遠ざかっていく後ろ姿を見ながら思っている。
 これまで何年もかけてチャンスを探し続けていたことだ。この後少しくらい待たされたとしてもさほど問題にはならない。
 それにまだ、仕上げが残っている。
「くっくっくっくっくっ」
 俺の口から漏れてくる笑い。
 それを止めることは、もうできなかった。


 そうして僕はその日、しのぶが待ってくれているマンションの部屋に帰ってきた。
 ――そう、しのぶは僕のことを待っていてくれるんだ。
 心の中で自分の中に向かって言ってみるけど、エレベータに乗ってる間もずっと、僕の中から琴絵のことが離れることはなかった。
「ただいま」
 元気も出ずに玄関の扉を開けて中に入る。
 ――しのぶが来てから、家を出るときは元気で、帰るときは元気がない日が多いな。
 そんな風に自分のことを皮肉りながら、僕は靴を脱いで玄関兼キッチンになっているところ入っていった。
「お帰り。早かったね」
 いつもの通り素っ気ない口調で、キッチンで食事をつくっていたらしいしのぶが声をかけてきてくれる。
「今日はちょっと遅れちゃったかな。でもすぐに夕食だよ。スーツ脱いで向こうで待ってて」
 これまでと同じなのに、どこか優しさが感じられるようになった気がするしのぶの言葉。笑みを浮かべようとして、浮かべきれず、「うん」とだけ言って僕は寝室に向かった。
 着替えや洗面を済ませている間に準備が終わって、夕食になる。メニューはクリームシチュー。じっくりと煮込んだらしいそれは、いままで食べたことがあるどんなレストランのものより美味しいと感じられた。
 これからずっと一緒に暮らすことになるしのぶが、僕の目の前で微笑んでいる。僕が夢を抱いていたあの頃と変わらない笑み。けれど僕は、彼女に笑みを返す元気はなかった。
「残った分は冷凍しておくよ。また今度暖め直して食べよう」
 無言の食事を終えた後、しのぶがテキパキと片づけをしている。プラスチック容器に残りのシチューを入れて冷凍庫にしまい、洗い物をさっさと済ませる。僕も手伝おうとしたのに身体がどうしても動かず、彼女に一任することになってしまう。
 その間、僕はダイニングテーブルに着いてなにもできずにいた。考えなくちゃいけないことはいっぱいあるはずなのに、頭の中の整理ができなくて、なにも思いつかなかった。
「どうする? 幸伸。今日はもう寝る? だったら布団の準備して上げるけど。それともお風呂にでも入る?」
 しのぶはいま、来客用にしまっておいた布団をベッドの横に敷いて寝ている。適当なパジャマも見繕ったから、最初の日のような自体はあれ以降起こっていない。
 でもそんなことはいまの僕にとってはどうでもいい。いま僕の心にあるのは――。
「どうしたの? いきなりだね。けっこう驚いたよ」
 寝室に入っていこうとしたしのぶを背中から抱きしめた。言葉のわりに驚いてる様子はなく、拒絶することもなく、しのぶは首に回した僕の腕に、そっと手を添えてくれる。
「どうしたの? 幸伸。悩み事? 私で良ければ、相談に乗るよ」
 言葉はいつもの通りでも、これまでと違う優しさが込められた声。僕は彼女に、琴絵のことを話すことに決めた。
「今日、琴絵と別れてきたよ」
「そっか。だから今日は元気がなかったんだね。……でも良かったの? 幸伸が望むなら、私は幸伸と暮らすつもりだけど、でも、彼女の方は本当に良かったの?」
「良かったんだ。あのときしのぶに言った言葉は酒の勢いなんかじゃないよ。本気だった。だから琴絵とのことは良かったんだ。だけど、僕はそんなに強い人間じゃない。だから――」
 しのぶの手の合図に、僕はいったん腕に込めた力を抜いた。振り向いたしのぶは一瞬僕の顔を見つめ、そして僕の身体に両腕を回してきた。それに答えて僕もしのぶの身体を、今度は正面から抱きしめる。
「僕は弱い人間だよ。弱いから、堪えられるどうかわからないんだ。割り切ったつもりでいても、琴絵のことが頭を離れないんだ」
「そうだね。幸伸は昔からそう言う奴だったよね。うん」
 首筋にかかるしのぶの優しい息。間近で聞こえるしのぶの暖かな声。
 それが僕を無性に安心させてくれる。だからその後も言葉を続けることができた。
「すぐに一緒に暮らそう。琴絵のことで、僕が押しつぶされちゃう前に。いますぐに、できるなら明日からでも、あの町に帰って一緒に暮らそう」
「――うん、いいよ」
 たったひと言のしのぶの答え。それが僕の心から、しこりを取り去ってくれた。
「実はね、幸伸」
「ん?」
「私はここに、誰でもなく、幸伸を迎えに来たんだよ」
 涙が出てきそうになった。
 嬉しさと安堵の気持ちで、僕の目から涙が溢れそうになっていた。
「ただ幸伸を迎えるために、私は来たんだよ」
 それでも涙は流さない。その代わりに、僕は腕の中のぬくもりをいままで以上に力を込めて抱きしめた。


 ――もう、幸伸とはダメなんだな……。
 彼とつき合い始めたのは高校一年の春。中学二年のときに彼を知って、想ってて、エスカレータだった高校に上がってすぐに告白された。……正確には、それまでもつき合ってるみたいな状態だったから、正式につき合うことにしただけだったけど。
 それから十年以上、彼とつき合ってきた。
 喧嘩は何度もしてたし、いざこざはけっこうあったものだけど、でもずっとわたしと幸伸はつき合い続けていた。
 その彼と、別れることになった。
 今日はなにも考えられず、ルーチンワークすらまともにこなせたのかわからない。仕事をしてたときの記憶さえ曖昧なまま、わたしは家に帰ってきた。食事も摂らずに自分の部屋に入って、普段の通りに機械的に仕事着から部屋着に着替える。鞄の整理や明日の仕事の準備を終えた時点でやることがなくなって、椅子に座り込んだわたしは溜め息を漏らした。
「ふぅ」
 漏れてくるのは溜め息ばかり。
 幸伸のことばかり頭の中に浮かんで来て、なにもすることができない。
 ふと思いついたわたしは、机の引き出しのひとつを開けた。そこから出てきたのは色褪せたなんの変哲もないノート。でもそれは、わたしの思い出のつまったノートだ。
 引き出しの中にあったノートを全部机の上に取りだして、表紙に書かれた日付が一番古いものから開いていく。
 そのノートは、交換日記だった。
 中学二年のとき、授業の一環で行われた交換日記。みんな嫌々やっていたもんだけど、わたしは違った。交換の相手が、幸伸だったから。
 本当は一週間だけだったものなのに、わたしと幸伸の間では、みんなに隠れてその後もずっと続いていた。
 一ページ一ページ、何度も読み返してぼろぼろになったのを丁寧にめくって書かれた内容を読んでいく。
 あのとき思っていたことが、悩みが、夢が書かれている日記。わたしはこの交換日記の中で幸伸と知り合い、彼に惹かれていった。
 思い出されていく過去にわたしは苦笑いを浮かべる。笑いながら、涙が溢れてくる。
「幸伸……」
 好きになった彼。好きになってくれた彼。ページをめくるごとに彼の姿が思い浮かんで、気がつかぬうちに彼の名前を何度も呼んでいる。
「――あれ?」
 一冊目を読み終わったところで、わたしはあることに気がついた。
 交換日記を始めたのは授業がきっかけだった。でもそれが終わったのは、中学卒業とかそういうきっちりした時期じゃなくて、中学三年になって少し経った頃だった。
 ――なんで突然終わったんだろう。
 思いだそうとしたけれど、終わったきっかけなんて思いつかなかった。突然終わったのには理由があるはず。その理由がなんだったか気になって、涙を拭ったわたしは一番最後の日記を開いた。
 時期ばかりじゃなくてノートの途中で終わってるという奇妙な最後の日記。
「しのぶ……」
 幸伸の書いた日記の中に見つける「しのぶ」という人物の名前。
「まさか、そんなっ!」
 その名前とともに書かれていた内容にわたしは思わず声を上げていた。
 そしてそれが、交換日記を終える理由になったことをいまはっきりと思い出した。

* 6 *

 辞表――。
 それがいま僕の手の中にある。
 まだ表立って残務整理を行えないから、もう少し会社に残る必要はある。でもそれが終わり次第会社を辞めるつもりで、終業が迫った今日、こうして部長に提出つもりで辞表を手にしていた。
 今日もやはり部長は残業する社員を放って終業とともに帰宅するつもりらしい。あと十分時間があるというのに、帰宅準備を始めていた。
 部長が手透きになった瞬間を見て渡そう。
 そう考えて自分の机に着きながら横目で部長のことを見ていた。
 ――よし、いまだ。
 帰宅準備を終えたのを見て、僕は席を立った。けれど何歩も行かないうちに、僕の前に立ちはだかる人物が現れた。
「琴絵……」
 僕の目の前に立ったのは琴絵。悲しみとも怨みともつかない感情を込めて睨んでくる彼女は言う。
「話があるの。大事な話。幸伸はもう今日の仕事は終わったんでしょ? どこか落ち着いたところで……隣のビルの喫茶店で話そ」
 言って僕の腕をつかんで無理矢理引っ張っていこうとする琴絵。
「ちょっと待ってよ。僕はこれから部長に話があるんだ。その後に――」
「……ダメなの。いまじゃないと。いますぐじゃないと」
 僕が手に持つ辞表と書かれた封筒を見て、彼女は言う。
 ――そこまでして、琴絵は僕になにを話したいんだろう。
 そういうしている間に部長はいなくなっていた。出口の扉の方にも、もう彼の姿はない。 「わかった。行こう」
 辞表は明日の朝にでも出すことに決めて、僕は琴絵とともに会社を出る準備を始めた。


 ――いったいなんの話だろう。
 それを思いながら僕は運ばれてきたブレンドを一口すする。琴絵の方も気がはやってるのか、頼んだ紅茶をゆっくりと飲んで気持ちを落ち着かせているようだった。
 僕は彼女と決別した。しのぶと一緒に暮らすと、彼女の前にはっきりと言った。それなのに大事な話があると言う琴絵。話の内容が、僕には想像できなかった。
「しのぶって、誰なの?」
 喫茶店に入ってひと息ついた後、初めて琴絵が発したのはそんな言葉だった。
「え?」
「しのぶさんって、いったい誰なの?」
 質問の意味がわからなかった。しのぶのことに関しては昨日しっかりと言ったはずだ。それとも琴絵は昨日僕が言った言葉を覚えていないんだろうか?
「……昨日言った通り、僕の幼なじみだよ。二歳年上なんだけどね。僕がこっちの方に引っ越す前は、ずっと一緒にいた女だよ」
「本当に本当?」
「そうだよ」
「それじゃあ――」
 なにか思わせぶりで言い、琴絵が鞄から取り出してきたのは、一冊のノートだった。それもずいぶん古い、僕と琴絵が中学時代、交換日記のために使っていたノートだった。
「こんなもの、どうしたの?」
「いいからここを読んで」
 ページを開いて突きつけられたノートを手に取り、そこに書かれた内容を読んでいく。日付からすると、交換日記を止めた最後の頃だった。
「まさか、そんな――」
「幸伸……」
「そんな莫迦なこと、あるはずがっ!」
 自分で書いたそのページの内容。それを読んだ僕は思わず立ち上がり叫んでいた。
 ――しのぶは、もう死んでるだって?
 琴絵に示されたページには、僕自身の手で、しのぶの死を悲しむ内容が書かれていた。
 それを書いたのは十年前だ。ということは、しのぶは十年前に死んでいる人間と言うことになる。
「そんなはずは、まさか……。って」
 しのぶと再会して初めの頃、僕は彼女に不安を感じていた。溢れ出すほどに強く感じていた不安の原因は、だからだったんだと思いつく。僕は彼女の死を知っていて、でも忘れていたから、彼女が部屋にいなかったことにあんなに不安を感じたんだ。
 ――じゃああのしのぶは誰なんだ?
 気がつけば立ち上がっていた。
「幸伸、行くの?」
「うん」
 問われて即答する。
 見下ろした琴絵の顔には暗い表情はなく、僕のことを信じてくれる真摯な瞳だけがあった。
「確かめに行ってくる!」
 宣言とともに、僕は走り出した。

 幸伸は行ってしまった。
 喫茶店にひとり残されたわたしは、テーブルの上に広げられたまま置かれた交換日記を手に取り、抱きしめる。
 ――この後は、どうなるんだろう。
 一度は別れることになったわたしと幸伸。もししのぶさんという人がすでに死んでいる人なんだとしたら、私たちの関係はどうなってしまうんだろうか?
 それよりも不思議なのは死んでいるはずのしのぶさんが幸伸の前に現れたこと。いったいどんな姿で、どうして現れたんだろうか。
 しのぶさんの姿を一度も見ていないわたしには、わからないことだった。
 そして、彼女が現れた理由も……。
 もしかしたら企画のことで悩んでいた幸伸が生み出した幻だったのかも知れない。
 そんなことを思いながら、冷めてしまった紅茶を飲み干し、抱きしめていた交換日記をテーブルの上に置いた。
「そっか」
 唐突に駆けられた声。それと同時に交換日記の上に手が置かれた。
「あなたが琴絵さんね」
 紅茶のカップから上げて見たその人の顔を、わたしは知らなかった。


「しのぶ!」
 玄関の扉を開けると同時にしのぶの名前を呼んだ。しかし、電気の点いてない部屋の中からは返事はない。
 靴を脱ぎ捨て三和土から上がり、灯りという灯りを点けてしのぶの姿を探し求めたけど、彼女の姿はどこにもなかった。
「嘘、だよな……」
 今朝会社に行くのに部屋を出るまで、確かにこの部屋にしのぶの姿はあった。彼女は確かに、僕とこの部屋で生活していた。
 しのぶが死んだ人間だなんて、信じられるわけがない。
 ――この前みたいにどこかちょっと外に行ってるだけだよな。
 そう思って僕はまた部屋の中にしのぶがいないかを探し求める。一度探していなかったのなら、こんな狭い中に彼女がいるわけはない。
「少し待てば帰ってくるさ。待っていれば、またあの素っ気ない口調で僕に声をかけてくれるさ」
 わざわざ口に出して言う。
 けれど不安は拭われない。しのぶが部屋にいない事実は、変わることはなかった。
 なぜ突然しのぶはいなくなってしまったんだろう。ここ何日も、僕を夕食のいい匂いと一緒に迎えていてくれたしのぶ。それなのにいまは彼女の姿はない。まるで琴絵にあの日記を見せられたのがきっかけであるかのように、しのぶは姿を消していた。
「そんなことない。いたんだ。しのぶは確かに生きていたんだっ」
 部屋の中を探って、しのぶがいた痕跡を探し始めた。
 しのぶの服を入れるために貸していたタンスの引き出しの中は、空っぽになっていた。しのぶが眠っていた布団は、圧縮用のビニール袋に入れられてクローゼットの中にあった。再会した翌日だけ使っていた来客用の灰皿はテレビ棚の置くに仕舞われ、しのぶのために用意してあった歯ブラシなども消え失せていた。
 ただ、キッチンが僕ひとりで暮らしていたときよりもきれいに片づいていたけれど、それは彼女が生きて僕の部屋で暮らしていたという決定的な痕跡にはなり得なかった。
「まさか……、まさかそんなこと、ありえるわけがないじゃないかっ!」
 部屋の中にいられなくなった僕は、玄関を飛び出して屋上に向かった。もしかしたらまたあのときのようにそこで煙草を吸っているかも知れないという、わずかな希望に頼って。 「しのぶ! しのぶ!! いないのか? いるんだったら返事をしてくれーーっ!」
 屋上に飛び出して叫び声を上げながら隅から隅まで探したけれど、そこに人の姿は発見できなかった。
「夢、だったのか?」
 そんなはずはない。僕の腕には、しのぶを抱きしめたときの柔らかい身体の感触が残っている。そのときに彼女が漂わせていた煙草の匂いを憶えている。
「どこに行ったんだ。どこに……。帰ってきてくれよ、しのぶ。僕は、僕は――」
「部屋にいないと思ったら、ここだったのか。探しちまったぞ」
 フェンスにすがりついて泣いていた僕にかけられた声は、しのぶのものじゃなく、男のものだった。
「なんだ幸伸。お前、泣いてるのか? なにやってんだかなぁ。まぁ、なんだろうと別にいいけどな。俺としては屋上にいてくれて手間が省けたくらいだ」
「利哉?」
 月もなく暗い中を近づいてきたのは、利哉だった。なぜこいつが僕のマンションにいるんだろうか。その理由が思いつかなかった。
「どうして利哉がここに? ――もしかして、しのぶのことを知ってるのか?」
「しのぶ? 誰だよ、それ。まさかお前、本当に琴絵ちゃんの他に女つくってたのか?」
 なにがおかしいのか、利哉は喉に詰まったような笑い声を立てる。その様子から見て、利哉はしのぶのことを知らないらしい。
「まっ、いいんだ、どうでも。俺はお前に死んでもらえばよ」
 そのとき僕は気がついた。利哉が、両手に黒い手袋をはめていることに。
「冥土の土産に教えてやるよ」
 嫌らしい笑みを浮かべながら、彼はポケットから取り出した煙草にライターで火を点ける。煙草をふかしつつ、言葉を続けた。
「嫌なもんだよな、世の中って言うのは。お前は運が良かった。ただそれだけなのによ、お前はあの可愛い琴絵ちゃんと一緒に社長の椅子まで手に入れちまうんだからな」
 話しながら一歩一歩と近づいてくる利哉。もし彼とやり合うことになったとしても、非力な僕じゃジムとかに通って見た目ばかりじゃない筋肉をつけてるという話の彼にあっさりねじ伏せられてしまうだろう。
「妬むよな、幸運って奴を。先に出会ってりゃぁぜってぇ琴絵ちゃんは俺のものだった。あの娘と一緒に社長の椅子も俺のものだったのになぁ。でもてめぇがいちゃぁ琴絵ちゃんは俺のものにならない。てめぇと琴絵ちゃんを一度別れさせたとしても、また仲がもどっちまう可能性もある。ってぇわけだよな」
 ――このままだと殺される。
 それを悟った僕は思いきって利哉に殴りかかった。けれどやっぱり利哉には敵わない。パンチを見舞うどころかその腕を取られて、背中の方でキメられてしまう。
「暴れるなよ。お前はこれから自殺するんだからさ。暴れて傷でもつくられたら、警察が怪しむだろ? 最近お前は琴絵ちゃんといろいろあるみたいだよなぁ。みぃーんな知ってるぜ。結婚と、社長への道ってぇのがお前みたいな弱い奴には重荷だったのかもしれないよなぁ」
 腕を取られたまま、僕はフェンスに押しつけられた。それほど高くないフェンスから、僕の肩から先が利哉の力に寄って押し出されていく。
「死ねよ、幸伸。後のことは任されてやるからさ。琴絵ちゃんのことも、社長の椅子のこともな」
 足をバタつかせて抵抗しようとするけど、無駄だった。だんだんと押し出されて、僕の目には遥か遠く、街灯によって照らされた地面が見えていた。
 ――死ぬのか、このまま。
 僕と一緒にいたしのぶが誰だったのか、けっきょくわからなかった。喫茶店で別れた琴絵とも、ちゃんと話をしておきたかった。
 頭の中を駆け抜けていく思いが、しこりとして残っていく。
 ……それが聞こえてきたのは、そんなときだった。
『死ぬつもり? このまま』
 その声は果たして気のせいだったのか。
『羽とともにみんなに幸せを振りまくなんてのは、やっぱり儚い夢でしかなかったのね』
 うわごとのようにまだなにか喋っている利哉には、その声は聞こえていないらしい。だけど僕にの耳には確かにその声が、しのぶの声が聞こえていた。
 ――ただの夢なんかじゃない。実現するって誓ったんだ。儚い夢なんかじゃなくて、僕がやりたいことなんだ!
『でも死んだら終わり。夢は夢で終わる。そうでしょ?』
 素っ気ない声が僕に問う。
 はっきりと言葉にはしない。でも僕には、彼女が僕になにを問うているのかわかっていた。
 ――まだ僕は死ねない。しのぶ、君の前で誓ったんだ。夢の実現を。だから僕は、こんなところで死ねないんだ!!
『そっ。仕方ないなぁ、幸伸は。まったく昔から弱いんだから。最後にちょっとだけ、私が手伝って上げるよ』
 その声が聞こえた途端、僕の目の前に白いものが舞い始めた。
 次々と落ちてくるそれが羽だと気づいたとき、利哉の力がなくなり僕はマンションから落ちることはなく屋上に倒れ込んだ。
「なんだ? これはっ。なんなんだ、いったい!」
 どこからともなく雪のように舞い散る白い羽の中で、利哉が空を見上げながら危なげない足取りで遠ざかっていく。
「止めてくれっ。止めてくれぇーーっ!」
 叫び声とともに利哉は屋上から走り去っていった。
 彼の背中が屋上の入り口の向こうに消えたとき、もう白い羽は見えなくなっていた。
「なんだったんだ……」
 わからなかった。
 僕に、そして利哉に、いったいなにが起こったんだろうか。舞い落ちてきていた白い羽はどこにもどこにも見えず、僕が生き残ったという事実がかろうじてわかるだけだった。
「そんなこと、ないのか」
 たった一枚見える白い羽。へたり込んでいた僕は立ち上がり、その羽を手に取った。
 純白という言葉がまさに似合うようなその羽がなんの鳥の羽なのか、まったくわからなかった。普通の鳥のものとは思えないほど大きく、輝いているかと思えるほどの白さを誇っている羽だった。
「幸伸? ここにいるの?」
「琴絵?」
 見つめていた羽から顔を上げる。するとそこには、琴絵の姿があった。

* 7 *

 疲れ切った身体をどさりとソファに落とし込む。背中を背もたれに預けるように天井を向き、大きく息を吐いた。
「見つからなかったね、しのぶさん」
 言いながら琴絵が僕と同じソファの、少し離れたところに座る。
 屋上での一件の後、僕はなぜかやってきた琴絵とともに、しのぶを求めていろんな場所を探し回った。
 そうして結局、見つけだせずに深夜と言ってもいい時間になり、部屋に帰ってきた。
 ――でもどうして、琴絵が来たんだ?
 疑問に思って、僕は琴絵の方に顔を向けた。すると彼女は訊かれることを察していたのか、自分から口を開いた。
「会ったの、わたしも。わたしがここに来た理由はね……」

「あなたが琴絵さんね」
 顔を上げるとそこには落ち着いた感じのする、少し年上らしい見知らぬ女性が立っていた。
「初めて会うわね。私が幸伸の幼なじみの、しのぶよ」
 その声を聴いた瞬間、身体は無意識のうちに立ち上がり腕を振り上げていた。
「いきなりひどいわね。まぁ、座らせてもらうわね」
 わたしが思いっきりひっぱたいた頬を押さえ、その女――しのぶさんはさっきまで幸伸が座っていた席に座る。
「少し話がしたくてね。琴絵さん、あなたも座ってくれる? 話しにくくてさ」
 そんなことをされたのにまったく動じる風もなく、彼女は微笑んでいる。仕方なく一度立ち上がったわたしも席について、彼女と対峙した。
「私はね、幸伸のことを迎えに来たの。そのために、私は彼のもとに現れた」
 前置きもなにもなく、しのぶさんはそう語り始める。微笑みを浮かべている彼女にどう言葉を返していいのかわからず、わたしは沈黙しているしかなかった。
「幸伸は私を選んでくれた。私と一緒に来てくれるって言ってくれた。でもその選択がいいことなのかどうなのか、私にはわからない。彼が最終的にどういう結論を下すのか、それは幸伸次第ね」
「どういうことなんですか?」
 説明が加えられることのない彼女の言葉の真意が読めない。どうにか返した問いも、やっとでてきたと言う感じのものだった。
「たいしたことじゃないわ。確かめて欲しいの。幸伸が出す結論を。いまから、すぐにでも」
 言うことだけ言ってしのぶさんはさっさと席を立つ。一度微笑みを投げかけてきた後、彼女は出口に向かって歩いていってしまった。
 ――どういう意味なの?
 一瞬それを考えていて、わたしは立ち上がるのが遅れた。はたと気づいてしのぶさんの後を追って喫茶店の出口に向かったけれど、人通りがそれほど多くない外の通りに、彼女の後ろ姿を見つけることはできなかった。

「それでわたし、すぐにここに来たの。しのぶさんの言葉の意味はわからなかったけど、でも、幸伸になにかありそうだって感じたから」
「そうだったのか」
 どうしてしのぶがそのときしのぶのもとに現れたのか、写真くらいは僕の部屋にあるけど、その喫茶店に琴絵がいることをなぜ彼女が知っていたのか。その疑問を訊こうにも、しのぶはいまここにいない。問うべき相手は霧のように消えてしまった。
「お腹空いたな」
 出ない問題を考えるのは止めることにした。数日間一緒に過ごしたしのぶが誰だったのか、そして本当にいたのかどうなのか、もう確かめられないことだ。
 考えるのを止めてみると、僕はお腹が空いていることに気づいてそんなことを口走っていた。
「いまなにか食べるものはあるの? 材料でもあったらつくるよ」
 この前まであった琴絵とのぎこちなさもいまは消えている。まだ少ししこりのを残すことになるかも知れないけど、この後は、僕と彼女のふたりで考えていくことになるだろう。 「調べてみるよ」
 ソファから立ち上がってキッチンに向かった。果たしてしのぶが片づけていったのか、冷蔵庫の中はきれいになっていて、同時にめぼしい材料も入っていなかった。
 続いて冷凍庫の方を開ける。
「――これは」
「どうしたの?」
 僕の声に琴絵もキッチンにやってきて僕の手の中にある物を見る。
 僕が持っているものプラスチック容器。その中には、しのぶがつくってくれたクリームシチューの残りが入っていた。


「部長。これを」
 そう言ってひとまとめにした書類を手渡すと、机についていた部長は僕を下から見上げるように睨みつけてきた。
 その書類の表紙には、「月観測衛星の搭載に関する企画」と言う文字が印刷されていた。
 僕はなみも言わずに部長の視線を受け止める。そして睨むわけではなく、視線を返す。
「……わかった。受け取っておく」
 しばらく続いた睨みあいは、部長のその言葉で終わりを告げた。

 空を見上げると、もう夏の名残は見えず、すっかり秋の色に染まっていた。
 昼間の強い日差しはあるのに寒ささえ感じる屋上で、僕は空を仰ぎながらあのときの白い羽を手の中でもてあそんでいた。
「幸伸、お昼は済んだの?」
 そうしているときにやってきたのは琴絵。微笑みを浮かべながらやってきた彼女に、僕も微笑みを返した。
「琴絵のこと、待ってたんだよ。たぶんここに来てくれるだろうって、ね」
「どうせなら下で待っててくれれば良かったのに。会社の近くにあるっていういいお店聞いたからさ」
「わかった。一緒に行こう。でもちょっと待って――」
 一陣の風が吹き抜けていく。
 迫り来る冬を感じさせるような冷たい風が。
 それに吹かれて僕は目を瞑る。風だけは、あのときもいまも、変わらぬように感じられていた。
「出してきたの? あの企画」
「うん。出してきた。だから、あれの結果が出る前に言いたいことがあったんだ」
「え?」
 企画のことで一瞬暗い表情になった琴絵の両肩に手を置き、僕は言う。
「琴絵。結婚して欲しいんだ。たとえ企画が成功しても失敗しても、関係なく」
「え?」
「僕は弱い人間だ。でも夢を追ってる人間だ。もしかしたら会社を辞めるなんてこともあるかも知れない。でも琴絵、企画のことも会社のことも君に対しての気持ちには関係ない。なにがあっても、君についてきてほしいんだ」
 唐突なプロポーズに、琴絵は驚いた顔になった。それから無言で目を瞑って、しばらくしてから、彼女は頷きを返してきてくれた。
 そんな彼女のことを、僕は静かに抱きしめた。

   「That's a plume of dream」 了


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