nil admirari

* 1 *

 ある時、思いがけず、姉の嫁いだ先の親戚の家に呼ばれ、夏の間をそこで過ごすことになった。そこは田舎も田舎で、文明の利器というものはトラクターとTV、それに夏に必需品である、冷蔵庫だけのように見えた。
 都会暮らしの自分には、少々酷とも言える毎日であった。
「お〜い、翔、まじめにやれ〜」
 姉の声がどこからともなく聞こえてくる。
「へ〜い」
 さっきも言ったように、この家には文明の利器の代わりに、かまど、五右衛門風呂といった、旧世代の代物があった。
「まったく、こんなもんよ〜」
 少々ヤケを起こしながら薪を割る。この一振り一振りに苛立ちを込めた。
 カコンッ!

 そもそも、ここに呼ばれる事になった経緯はこうだ。
 自分で言うのもなんだが、成績は優秀な方であったため、有名私立進学高校に通っていた。そこそこの成績だったし、目的の大学へは特に問題なく合格出来る筈だった。
 しかし、自分のような朴念仁にはマトモな人付き合いが出来ない。当然頑固な性格は他人との間に溝を生じさせた。
 こうと思い立ったら決して曲がることを知らない、猪の様な性格なのだ。こんなアクの強い奴が、普通に世間の歯車として活動できるはずが無い。
 だから、自分は高校を中退した。簡単なものだった。その後はバイトを転々としながら生活を営んでいたが、その内家でゴロゴロする時間の方が多くなった。
 そんなどうしようもない自分も、いつの間にか二〇歳の誕生日を迎えた。なにしろ出来損ないだ。お祝いは期待していなかった。ところが、姉は…
「あんた、ここに居ても冴えないみたいだから、あたしがとびっきりのプレゼントをあげる」
 その時は何のことだかわからなかったが、はっきり言って半分騙されたようなものだ。
 姉も自分と同様に都会生まれの都会育ちだった。文明の庇護無しで生活はできない。しかし、姉の夫となる男は自分の両親と暮らす事を条件に挙げていたのだ。自分の知っている限りで、もう六度目にもなる姉の挑戦である。しかも相手は土地をわんさか持っている田舎者だがそれなりの金持ちだ。姉は二つ返事で返したそうだ。しかし、問題があった。長年の都会暮らしと、仕事に生きた人生が影響してか、姉は家事がほとんど出来ないのである。
 普段、家事は母親か、もしくは自分がやっていた。本来は暇だというのが理由だったのだが、元々こういう事の好きな性分らしく、見事にハマっていった。
 しかし、姉も嫁ぐからには家事をしなければならない。姑の脅威も考えられる。そこで、姉は実の弟を『専属のお手伝いさん』として、駆り出したのである。
 ここまでがここに呼ばれた理由だ。

 冗談じゃない。何が『お手伝いさん』なものか。これはれっきとした『奴隷』だ。そのくせ、全ての責任はこちらに懸かる。たとい姉のやったことでも、全て自分に責任があるのである。
 義母も義母で、息子を占有される悔しさを、こちらにぶつけてくる。
「まったく、夏だけったってあんまりだ…」
 しかし、姉には逆らえない。他に行き先も無い。預金通帳を没収されてしまったため、お金も無い。
 まぁ、こんな田舎では滅多にお金も必要無いのだが…。せいぜい、お国や村に払うくらいのものだ。だが、お金が無くてはこの山村から出ることは叶わないだろう。だから、仕方無しにでも姉に従った。

 そんな生活がおよそ一ヶ月間続いた。夏真っ盛り。あと半分で放免の時期だ。家の近くにある古いお堂の廊下で、ごろりと寝転がって、今まで自分が何をしてきたのか考えていた。
 そんな風にうだうだと考えていると、真夏の明るい太陽の光が余計に眩しく思えた。さすがに直射日光には耐えきれず、日陰へと移動を開始した。そばにある木が覆っている部分が陰になっているのを見つけ、そこに落ち着く。
「ふぅ…」
 大きくため息をつき、同時に、肺にたっぷりと吸い込んだ、古い木の匂いを、吐き出す。日陰に入ってしまっていたためか、うとうととし始めた。木々から日の光が偶に差し込む。それが何とも言えず気持ちよく、真夏の暑さも忘れる。
 そんな朦朧とした意識の中で、誰かが来たのを感じ取った。こんな所、他人に見られたい人間はいない。少々驚いて。思わず、気づかれないように物陰からこそこそと覗いてしまった…
「あ…」
 多分中学生…それも女の子だった。しかし、発育の悪い感じの女の子で、一年生くらいだろうか。さて、問題は今はまだ午前中だということ。学校があるはずなのに、どうしてこの娘はこんな所にいるのだろうか。自分は疑問に思いながら、もう少しこの娘を観察してみることにする。
 髪は頭の後ろで二つに束ねている。
 斜め後ろからなので顔はよくわからないが、少し日焼けをした感じの頬が伺える。
 体操坐りの格好であごを膝の上に乗せているのは、良く分かった。
 その娘は何をするともなく、ただそこにぼ〜と腰掛けているだけなのである。
 一〇分が経過…二〇分…三〇分…
 相変わらずその娘の方は先程と変わらないままであった。しかし、こちらのほうに問題がある。もうそろそろ家に戻らないとマズイ。食事の支度が遅れようものなら、何と言われるかわかったものではない。
 しかし、下手にこそこそとしてしまった手前、今出るのはやけに不自然な気がして、出来なかった。気づかれずに…というのは、無理がある。なにしろ、自分は建物の角を死角に、その娘のすぐ斜め後ろでしゃがんでいる状態なのだ。こんな距離で動こうものなら、誰でも気づくだろう。
「あの〜…」
 自分が考えこんでいると、すぐ目の前に見上げる様にして、その少女が覗き込んでいた。一つだけ言えること、それは『カワイイ』…ではない、見つかったのだ。
「わゎ、ごめんなさい」
 とりあえず、謝ってみた。
「はぁ…」
 なんだかわからないといった顔をして、首を傾げてしまった。そして少女が離れようとしたので、思い切って尋いてみた。
「あの…ここで…何してるんですか?」
 尚、この質問は、自分にも当てはまる。 「えっ?」
 少女はとぼけた声でこちらに向き直った。どうやら意味を理解しなかったようだ。 「今、学校の時間だよね?」
「あ、あぁ…」
 少女の表情は一気に暗くなり、目を逸らしてしまった。どうやら触れて欲しくなかったことらしい。虚空を見つめたまま、ゆっくりと口を開く。
「抜け出してきたんです」
 大体予測はついていた。
「どうして?」
「……」
「……」
 しばらくの間、沈黙が続く。
「…お願いです、尋かないで下さい」
 沈黙を破り、そして少女は立ち上がる。
「わたし、もう行きますから…」
「あ、あぁ…ごめんね」
 他に何と言って良いのかがからず、別に悪くもないのに謝ってしまった。
「……」
 少女はそのまま立ち去って行った。飛び石の上にポンッと飛び降りてから、小走りに歩いていく。少女が長い階段の下に沈んでしまうまで、その様子を見守った。
「はぁ……」
 少女が見えなくなると、少しだけため息をつき、今の出来事の余韻に浸る…。
「あっ」
 思い出した。昼食の準備をしなければならない。自分は慌てふためきながら、駆け出した。


 搾られた。じっくりと搾り取られた。しかも、今晩は自分だけおかず抜きだった。せっかくの焼き肉が…。
 ちょっと昼の支度が少し遅れただけじゃないか。しかも、出来上がった時間はいつもと同じだ。それを何が「かまどを預かるものは、いかなる事があっても、定時に位置に就いていなければなりません」だ、鬼姑め…今に見てろ…って、自分の姑じゃないけど。
 何か心に抑えきれないものがあった。それが溢れたのは、既に太陽が沈み、人が寝静まったころだった。深夜にも関わらず家を飛び出す。
 かといってこんな時間に何ができるというわけでもなく、川縁で星を眺めながらぼぅっとするだけだった。
 ここでは、常夜灯はおろか家からこぼれる灯火すらほとんど無いので、普段は暗い。だが、今晩は道のに生える草の、わずかな雫をたたえる、その細かな様子もはっきりとわかるほど、明るかった。空でこうこうと輝いている満月のせいだ。満月がこんなに明るいと実感したのは、生まれてはじめてのことだった。
 月の周りには星は見受けられなかったが、少し視点を変えれば、一面に散りばめられた瑠璃やダイヤモンド、それにルビーがちらちらと自分の心をくすぐった。
 自分は近くにあった小石を拾い、河に向かって投げた。
 ぽちゃん…石が水に落ちた音が消えると、辺りは川の音と、虫の声、それから自分の吐く息の音だけになってしまう。続けずにはいられなかった。
 もう一つ、ぽちゃん
 もう一つ、ぽちゃん
 もう一つ、ぽちゃん…
 沢山の石を投げ終え、だいぶ気が済んだ。そのまま仰向けに倒れこむ。ちょうど土の部分だったので、ふわりとした感触があった。
 ぼーっと空を眺める…やっぱり星は綺麗だ。こんな空を独りきりで見るのはもったい無いような気がした。誰かと見れたら幸せかもしれない。そう思った矢先だった。
 ぽちゃん
「!?」
 意外なことに、別の方向から水の音が聞こえてきた。それほど遠くではない。
 また、ぽちゃん
 また、ぽちゃん
 また、ぽちゃん…
 深夜のことなので、しこたま驚き、起き上がって、音のした方に注目する。
「……!」
 よく見ると、そこには女の子のような影がうっすらと、月明かりに照らされて浮かび上がっていた。こんな時分に女の子が居るとは思えない。自分はちょっとホラーな事を思い浮かべながら、ゆっくりとそちらに近づいていった。そして、あと一〇メートルという所で、声を掛けた。
「あの…」
「……」
 相手は返事をしない。仕方ないので、もう少し近寄ってみた。
「ちょっと…いいですか?」
「……」
 自分は今頃やっと気づいた。この少女は泣いているのだ。
「あのー」
 もう一度、大きな声で呼んでみる。
「えっ?」
 ひょっとしたら、今やっと気づいたのだろうか…。
「あの、こんな時間にどうしたんですか?」
「あ、それは…」
 良く見たら、朝方、お堂で出会った少女ではないか。今日は一体何の縁があったのだろうか。二度もこんなに珍しいところで会うなんて。
「それは、ちょっと言えないです」
「そうだろうね」
 冷静な応えを返し、そして少女の隣の空間を指差す。
「ここ、いいかな?」
「え、あ、は、はい、どうぞ…」
 ちょっと意外そうな反応を示したが、少女は承諾してくれた。
「じゃ、遠慮無く」
 少女の指した場所に、ゆっくりと腰掛けた。改めて少女の姿をよく見る…今度は寝間着代わりだろうか、白い無地のシャツを着ただけの姿だった。少々ぶかぶかなあたりがかわいらしかった。
「……」
 少女の方は黙ったまま、河に反射する月明かりを見ているようだった。
「……」
 自分も同様に黙ってはいたが、相変わらず少女の方が気になって、ちらちらとその様子を確かめた。もっとも、変な気を起こしているわけではない。ただ、純粋に気になってしょうがないのだ。
 それから三〇分ほど経過しただろうか…
「くしゅんっ」
 少女がくしゃみをした。いくら夏とはいえ、深夜に外で過ごすには少し風が冷たい…もっとも、都市のそれとは違って、ここは源泉に近いために川の水が冷たいのだ。冷たい川の水に冷やされた風は、昼間でも涼しく感じるほどだ。そして、慣れない涼しさ故に万全の装備で来た自分とは対照的に、少女はシャツ一枚…薄すぎる。
「風邪ひくよ」
 そう言って、自分は着ていたパーカーを、少女の肩に不器用に被せる。
「あ…」
 驚いてこっちを見る少女。
「こっちは平気だから、キミが着ているといい」
 我ながら『クサイセリフ』だった。こんなことは、死ぬまでに二度とは言えまい。
「そんな…悪いです」
「いいから」
「でも…」
「いいから」
「はい…」
 やっと、自分の厚意を受け取ってくれた。被せたパーカーを羽織りなおす。
「でも…」
「いいから」
 まだ観念しないのかと思って遮る。
「いえ、そうじゃなくて」
 違ったようだ。
「どうして…こんなに優しくしてくれるんですか? わたし、あなたと知り合ってからまだそんなに経ってませんし…それに…」
 確かに、その通りだ。しかし、こんな異常な出会い方をすると、対処も普通じゃなくなるのかもしれない。
「まぁ、これも何かの縁だと思って」
 もう、理由なんてどうでも良かった。何しろ自分でもわからないのだから。
 こちらの言葉に対する少女の言葉は無く、ただ、うつむいているだけだった。自分も、ただこうして居たいだけだったのかもしれない。
 長い沈黙が、再び覆いかぶさってきた。聞こえてくるのは、河のせせらぎと虫の哀歌のみ。

 結構な時間をそうやって過ごしたような気がした。
「さて、風邪引くといけないから、そろそろ帰ろうか」
 固くなった腰をさすり、ゆっくりと立ち上がる。少女もそれを見て立ち上がり、
「はい…じゃ、これ」
 そう言って、被せたパーカーを脱ごうとする。
「あ、いいんだよ…今度会った時に返してくれればいいから…」
「でも…」
「いいったら」
 少女に精一杯の微笑みを贈り、先に歩き始めた。
「あの…じゃぁ、今度お返ししますから…」
 方向が逆なのかどうかは知らないが、とにかく少女は自分と一緒には歩かないらしい。 「そうだな…じゃぁ、今日はおやすみ」
 そのまま歩きながら、後ろに向かって手を振る。
「あ、はい…おやすみなさい」
 いい感じの挨拶が返ってきた。今までで一番いい声だ。
「それと…何があったかは知らないけど、明日は学校に行くように」
 それなら…とばかりに立ち止まって、もっともな事も言ってみる。
「……」
 しかし、それには無言が帰ってきただけだった。

 家に着いて時計を見ると、もう既に四時を過ぎていた。出たのが二時頃だったような気がするので、結構長い時間、外に居たことになる。
 あんな時間に、あの少女はどうしてあんな所に居たんだうか?
 お堂であの少女は何を想っていたんだろうか?
 そして、自分に対して素直な態度をとってくれるのは、どうしてなんだろうか?
 様々な疑問が湧き上がり、やがて眠りへと落とし込んだ。

* 2 *

 翌朝、眠い目をこすりながら、いつも通りの時間に起きた。もう少し寝ていたかったが、それは半ば脅迫性をもって、許されることではなかった。
 それからは、それまでと同じような日々が続いた。姉は相変わらずだったし、その姉の姑も毎日同じ顔をしていた。
 ふと暦をみると、日付がいつのまにか、希望を込めて記したバツ印にそれほど日が無いことに気づいた。そう、暦の上でだが、もうすぐ夏が終ろうとしているのだ。周りで耳障りなくらい響いている蝉の声も、若干種類が変わってきたような気がする。
 胸が踊った…それもそうだ、この地獄のような日々から脱出することができるのである。これ以上喜ばしいことが、他にあるだろうか…。
 はやる気持ちを抑えながら昼食の用意をしていると、不意に居間に居る姉に呼ばれた。何事かと思って行ってみると…
「あたしら、週末に家族旅行行くから、あんたはもう家帰っていいわよ」
 朗報だった。因みに、姉夫婦がハネムーンから帰ってきたのは、ここに来るつい一週間ほど前のことである。なんでも、今度は姑を連れての温泉旅行らしいが…。恐らく、首謀者は姉だ。姉は旅行というものが、この上なく好きなのだから。
「姉さん、本当にいいの?」
「あんたなんかに留守任せといて、空き巣にでも入られたらたまったもんじゃないからね」
 なるほど、そういう考えだったのか…。これまでの奉仕内容からすると、苦笑するしかなかった。しかし、頼られるのはもっとイヤだった。その葛藤のせいだろうか…なかなかおかしな笑い方をしたと思う。
 その笑い方を見て姉が勘違いしたのか、「もちろん、あんたは旅行なんか行く資格なんてないからね」と釘を打った。もっとも、ついて行きたいなんてこれっぽっちも思ってやいなかったが。

 カレンダーに新たなバツ印をつける…土曜日のところに大きく赤のマジックで。今日は木曜日だから、今日を含めてあと三日で帰れることになるのか…。
「(そう思うと、なんだかこの土地も名残惜しいものがあるな…)」
 ほとんど空気だけでつぶやいた。この土地自体は、来た時よりは印象が良い。家の中での生活は散々だったが、空気は美味しいし、気候も過ごしやすい。あと、周りが木で囲まれているからだろうか、妙に安心感があるのだ。

 浮かれていたせいだろうか、一日はあっという間だった。全ての仕事を終え、残り湯につかりながら、窓の向こうで佇んでいる宇宙を眺める。天気は曇りで、白い帯がそこら中に敷かれていた。
 しかしたった一点、雲に侵食されていない場所があった…。小さな弱い光の星々が、そこでは重なり合い、寄りそうようにしている。普段はきっと明るい星の強い光にさえぎられて、見ることが無いであろう、星々。
 風が弱いのだろうか、しばらくはそのままの状態が続いた。不思議な気持ちだった…ずっとこのままの状態が続くのではないかと…。いや、そう願っていただけかもしれない。
 たとえば、何かかけがえの無いものがあったとしても、そういう時に限って、それはすぐに崩れてしまうだ…自分ではそう思っている。

 苦労してみつけた宝物…いつか必要じゃなくなるときが来ると思っている。 
 物語のハッピーエンド…その先には、苦しい未来があると思っている。
 大切な思い出…大人になるにつれて、忘れてしまうものだと思っている。
 子供の頃に結んだ、他愛の無い約束――

 やがて、星々は白い雲に覆われて消えてしまった。


 眠れなかった…
 妙に興奮していた…
 開けっぱなしの窓から入ってくる、何の虫のかはわからなかったが…鳴き声が延々と頭の中に語り掛けていた。意識は覚醒していた。いまいち実感は無かったが、確かに意識は覚醒し、何かを考えようと必死だった。
 微かに聞こえる川のせせらぎ…
 時折、空気が目の前を通り過ぎる…それは冷たいくらいに感じられた。ここの空気は澄んでいて、そして冷たい。下流では味わうことのできない本当の夏が、ここにはあった。
 ゆっくりと寝返りを打ち、窓の外を見る…月が綺麗だった。薄くかかった雲を透かして、月はこうこうと輝いていた…をじっと眺めていると、不意に外に出たくなって、いつの間にか上着を身に付け、外に出かける準備をはじめていた。
「ふぅ…」
 外は心地よかった。胸一杯に空気を吸いこみながら、川の方へと歩く。目を落とせば、小径に沿って遠慮がちに自生している、赤いけしの花が、きらきらと月光を浴びていた。もう一つ、遠慮がちに川を望んでいるけしの花が一つ…
「やぁ…」
 その赤い衣服を身に付けた少女は、少々オーバーとも思える動きでこちらに振り返る…少し驚かせてしまったのだろうか。
「あ…」
「前にも、ここで会ったね」
 なるべく優しく話しかけみた。子供に接するような形では、いささか失礼かと思い、紳士風に喋ったつもりだったが、慣れないためかそれは随分ときまりの悪いものとなった。
「はい、覚えてます…」
 気恥ずかしいばかりの台詞に対する少女の態度は、実に美しいものだった。月光を浴びて、きらきらと輝くその瞳には、何かしら期待感が感じられた。何というか…待ちわびていた…とでもいうのだろうか。とにかく、この少女と仲良くなってみたいと思い、そう決めた。
「隣、座っても良いかな?」
「あ、どうぞ…」
 少女の隣に腰掛ける。少女は無言であることが多いように思えたので、出来る限り自分も無言で居ようと思った。川のせせらぎと虫の声だけが、いつまでも頭の中に響いていた。

 半時ほど経ったであろうか、少女がすっくと立ち上がった。
「わたし、もう帰りますね」
 月明かりをバックに、少女はそう告げた。逆光であるので、顔は見えなかったが、随分と儚げに感じた。
「そうか…」
「あの…」
 少女は最後に立ち去ろうしながら、ふと思い立ったような仕草をみせると、こちらに向き直り…
「この間のパーカー、明日、持ってきますから…」
 淡々とそう告げた。
「あぁ、もらっといてくれていいよ」
「そういうわけにもいきませんから…」
 少女は再び道の方に向かい、後ろを向いたまま言った。
「昨日だったら、お返しできたんですけどね…」
 昨日? …とすると、この少女は、昨日もここに居たのだろうか。いや、あの様子からすると、毎日ここに居たのではあるまいか。それにしても、なぜ…
「それでは、明日、待ってますから…」
 そう言い残すと、少女は去って行った。小径を歩くその姿は、やがて風景に溶けてしまうように、見えなくなった。それから一0分もしないうちに、自分も帰路についた。
 


 翌朝、目覚めると、まずはカレンダーに赤のマジックでバツ印をつける。
「明日までか…」
 明日の午前中には、姉達は家を出なければならない。実質、この家の仕事は今日で最後だ。そう思うと、妙に寂しいものがあった。
 「よしっ」と一念発起し、すべての作業に気合を入れてやった。するとどうしたことか、全ての作業が終わると共に、厳しいばかりだった姉の姑が褒めてくれた。なんだ、結構良い人じゃないか。ご褒美として、今日は洗い物を代わりにやってもらい、しかも一番風呂に入れてもらえたのである。
「ふぅ…」
 久々の清い風呂は最高だった。これで沸かす人が居れば完璧だったが…。まぁ、熱い刺激は健在だし、お湯そのものが透き通っている感じで、気持ちが良い。今晩は空も澄んでいた。まるで、自分の胸中を表しているような気がした。

 風呂から上がり、時計を確認すると、まだ二〇時半だった。「次、どうぞ」と居間に向かって声をかけ、自分の部屋に戻った。
 しかし、今日は気合を入れて作業をしたので、疲れた。もう眠ってしまいたい。そして、布団を敷き、ごろんとその上に横になった。


 鳥の鳴く声が聞こえる…
 もう朝か…
 目覚ましは鳴ってないな…もっと寝て居たい気分だ…
 今日はもう帰れるんだ…
 起きたら、朝食を作って…
 そしたら、もう帰るだけだ…
 まてよ…
 何か忘れてるような…
 そういえば…
 約束…
 約束!!

 がばっと起きた。そして、時計を確認する…
「五時か…」
 あの少女はまだ居るだろうか…。慌てて上着を身に着け、外に出た。あの少女といつも出会う場所…。薄暗く霧のかかった道を、ぜぇぜぇと息を切らしながら走った。だんだんと川のせせらぎが近づいてくる。そして、いつも座っていた場所に…
「……居ないのか」
 そこには、しっとりと濡れた草だけがあった。濡れた草…?
「雨、降ってたのか…」
 昨日あれだけ天気が良かったのに、夜中は雨が降っていたらしい。なんとなく土もぬかるんでいるような感じだ。
 ひょっとすれば、少女も雨だったので、外には出ずに、家の中に居たかも知れない。
「ふぅ…」
 安心して、息をついた。どうするか…もうすっかり目が覚めてしまった。今日は旅行のため、普段よりも遅くから朝食の準備をはじめても良い…よって、あと一時間ほど時間がある。この地とも、もうお別れなのだから…と、しばらく歩きまわることにした。
「そういえば…」
 あと一箇所、あの少女との出会いの場所があった。『ひょっとすると…』そんな悪い予感が心の中をよぎり、足早にお堂に向かって歩きだす。
 あと一段、あと一段…。石造りの階段はのぼりにくい。ただでさえ一段当たりの間隔が狭く、今時の人間である自分は、すぐにつまずいてしまいそうだった。挙句、所々割れている石の隙間には、びっしりとコケが生え、雨はどのくらい降っていたのだろうか、湿っているために、何度も転んでしまいそうになった。
 石段をのぼり詰め、お堂と対峙する…。
「やぁ…」
 そして、ゆっくりとそこに居る影に声をかけた。
「……」
「どうしたんだい、ずぶ濡れじゃないか…」
「……」
「ひょっとして、待っててくれた…かな?」
 二つにまとめられた少女の髪が、ふわりと空中を舞う。
「そうか、それじゃ、やっぱり遅刻か」
 もう一度、少女の髪が舞う。
「今日、学校は昼までだよね…昼から遅れた埋め合わせをしたいんだけど…」
「…本当?」
 こんどは、顔をこちらに向けてくれた。ただし、その顔は期待と疑いが交錯したものではあったが。
「あぁ、ここで、一時に…いいかな?」
「…はい、いいです」
 疑いは消滅し、期待が安心へと変わったのか、少女は穏やかに微笑んだ。
「じゃぁ、もうこれで…」
 立ち去ろうとすると、少女がお堂から飛び石の上にポンッと飛び降りた。
「あの…パーカー、濡れちゃったから、また洗濯してお返しします」
「あ、別にいいけど」
「いえ、させてください」
 少女の瞳からは強いものが感じられた。ここは素直にお願いした方が良いだろう。
「そうか…なら、よろしく」
「はい…。じゃぁ、わたし、行きますから…」
「あぁ、では、一時に…」
「思いっきり遅刻して、来ますね」
「あぁ、遅れて済まなかった」
 少女は、最後ににこっと微笑かけてから、階段を駆け下りて行った。少女の姿が見えなくなるまで見送ってから…
「さて、もうそろそろ戻らないとヤバイな」
 自分も帰路につくことにした。

 朝食を終えると、さっそく旅行準備にとりかかった。ポーターよろしく、姉達の荷物を家の外に止めてある、おんぼろの個人タクシーに積め込む。
「翔、これ、あんたの」
 姉貴が財布と預金通帳を手渡してくれた。早速中身を確認する。通帳はもちろん、財布の中身もここに来た頃と同じだった。
「安心しぃ、あんたの金なんて、死んでも使わへんから」
 そう言い残して、姉貴はタクシーに乗る。タクシーは既に満杯だった。もっとも私は乗せてもらえなくても良いと言っておいたし、身軽なら、一時間ほども歩けばなんとか駅まで辿り着くことができる。
 小さくなっていくタクシーに対し、爽快な気持ち一杯に手を振って見送った。
「さてと…」
 もう一度財布を確認する。夏目漱石が三人ほど居る。これでは切符を買っただけで終わってしまう。あの少女にご馳走してあげるためには、ここにたった一軒だけあるという郵便局にからお金を下ろしてこないとならなかった。
「郵便局に…」
 そんなもののありかなんて、知らなかった。

 結局、あの少女に尋くことにして、お堂の一角で横になる。さすがに真ん中で寝そべるのは敬遠され、また、前と同じように、木漏れ日が差し込む場所を選んだ。
「(まだ、約束まで一時間以上ある。それまで寝てよう…)」
 そよそよとそよぐ風が気持ち良く、良い気分のまま、意識が遠のいていくのを感じた。


 ゆさゆさ…
 木が風に揺れているのだろうか…
 ゆさゆさ…
 いや、これは自分の感覚だ…
 ゆさゆさ…
 そういえば、待ち合わせしてたな…。
 ゆさゆさ…
「わぁっ」
 これは自分の声だが、だが、間違っても少女を驚かすために叫んだわけではない。自分が驚いたのだ。なにしろ、目を開けた瞬間、イキナリ目の前に少女の顔があったのだから。
「わ…」
 余りにも大声を上げたせいで、少女も驚いてしまったようだった。小動物のようにこそこそと引っ込んでしまった。
「あ、こんにちは」
 とりあえず、身体は起こしたが、他にどうすることも出来ずに、挨拶をした。
「…はい…こんにちは」
「もう一時か」
「いえ、五時です」
「は?」
 どうやら、少女が思いっきり遅れてくると言ったのは、本当だったらしい。とりあえず、すぐに郵便局に行かなければならないことを告げ、案内してもらうことにした。
「郵便局は駅のところにあるだけです。歩けば往復で二時間くらい掛かりますね」
「じゃ、じゃぁ、バスとか使おうか」
 自分はそのまま列車で帰るので問題が無いとしても、少女の方は帰るのにすっかり日が暮れてしまい、大変ではなかろうか。
「一時間に一本という噂ですけど…来たのを見たことが今までに二、三度しかありません」
「う、噂?」
「何しろ、停留所の時刻表は剥げ落ちちゃってますし」
 そういえば、人の身体のような、朽ち果てた物体が立っているのを、途中で見たような記憶がある。幽霊と思ったあれは、ひょっとすると停留所だったのだろうか。
「…そうか、じゃぁ郵便局は自分で探すことにするよ…駅の近くなんだよね?」
「すぐそばですから、わかると思いますよ。ただ、普通の民家と区別がつかないので、注意してくださいね」
「な、なるほど…。ところで、東海道本線とかと合流出来る最終って何時かな?」
「八時です」
「……」
 今は五時だから、七時がここに居るまでの最低ラインってことになるか。
「じゃぁ、しばらく遊んでから、郵便局に行くことにするか」
「……」
 そう告げると、少女は何かを言いにくそうにして、もじもじしている。
「ん、どうしたの?」
「…あ、え〜っと、言い忘れてましたけど、郵便局の窓口って四時で閉まりますよ」
「あ…」
 確かに、夜までやっている郵便局というのは、聞いたことが無い。しかし、今の手持ちのお金では、ギリギリやっと家に帰れるかどうかという感じだ。野宿という選択肢だけは勘弁して欲しいところだ。
「大丈夫ですか?」
「いや、全然ダメかもしれない…」
「そうですか…ひょっとして奢ってくれるっていう話しも?」
「すまない…」
「……」
 少女は、じとーっと冷たい視線をこちらに送っていたが…
「仕方ないですね」
 穏やかな笑顔に変わっていた。
「すまない…」
「いいんですよ…わたしだって遅れましたから」
 しかし、その発端となる原因は、こちらにある。
「何時までこうして居られますか?」
「あぁ、六時か、遅くても七時くらいかな」
「そうですか…じゃぁ、それまでここでこうしてましょう…」
「このまま?」
「えぇ…ここ、嫌いですか?」
「いや、嫌いじゃない」
 むしろ、好きな方に入る。
「だったら、もっとこうしてましょう…」
「わかった、そうする」
 それから、二人で何をするとも無く、ただ黙って、陽光や、風を楽しんだりした。

「じゃぁ、そろそろ行かないとな」
 照り輝く太陽がそろそろ夕日に変わる頃になって、立ちあがった。
「もう、行っちゃうんですか?」
「あぁ、結構ヤバイ時間だ」
「そうなんですか…もう少しなのに…」
「もう少し?」
 言葉そのものの意味もわからなかったが、それ以上に、この少女の切なげな瞳が、興味を引いた。
「夕焼け…もう少しで、一緒に見れたのに…」
 夕焼けか…。星空を見ていたりとか、この少女はロマンティックなものが好きなのだろうか。
「あぁ、残念だな…」
「残念です…」
「じゃぁ、またいつか、会うことがあったら…な」
「…まるで遠くにでも行ってしまうような言い方ですね」
「それほど遠くじゃないけどな。実家に帰るんだ」
「そうですか…もう偶然会ったりなんてのは無理ですね…」
「あぁ、でも…あんまり夜中に出歩かないようにな、物騒だし」
「ここは、物騒じゃないですよ」
「まぁ、一応だ。熊でも出るかもしれない」
「そんなの、出ません」
「まぁ、とにかく、もう行くから…」
 そう言って、飛石の上にポンッと降りた。すると少女も続いて降りてくる。
「私、くゆ」
「ん?」
 一瞬何を言われたのかと思った。少女が突然、予測できない言葉を発したからだ。
「私の名前、『くゆ』って言いますから…」
 だが、彼女は自己紹介をしたかったのだ。そういえば、何度か会ったりしたが、名前は尋かなかった。
「『くゆ』…難しい名前だな」
「『なでしこ』って知ってますか?」
「あぁ」
「あれの、難しい方の字の一文字目が『く』。『ゆ』は裕福のゆうです」
「それで瞿裕か…」
「えぇ、昔のなんか偉い人か何かから取ったらしいですが…」
「なるほど」
「で、あなたは?」
「あぁ、『くりやがわ』。厨房のちゅうに、普通のかわだ」
「それで厨川って読めるんですね…で、下の名前は?」
「『しょう』…はばたくって読めないこともないかな?」
「じゃぁ、翔さんですね」
「あぁ、悪くない」
「はい、翔さん」
 瞿裕は、嬉しそうに微笑んだ。
「じゃぁ、またな…」
「えぇ、また」
 『また』…このとき自分には、満面の笑みで見送る瞿裕の表情から、この言葉の重みを知ることができなかった。

* 3 *

 再び、自分の育った町に戻ることになった。ここには、ちょうど一〇年くらい前に越してきた。マンション住まいではあるが、こちらに来たときからずっとこのマンションに住んでいるため、自分にとって、ここが紛れも無い故郷である。それに、なぜか昔のことはよく覚えていない。東京に住んでいたらしかったが…
「あ、お兄ちゃん、おはよう」
 洗面所に入ると、入れ替わるように妹が飛び出してきた。そう、まさに飛び出してきた…ポニーテールが顔をなぞっていく。飾らない、石鹸の良い香りが広がって行き、気持ち良い。既に制服姿で準備完了…というか、多分遅刻寸前だろう。
「よう、芹那」
「朝は、『おはよう』でしょ」
「あぁ、おはよう」
「じゃ、あたしは学校行って来るから、お兄ちゃんもしっかりやってくるんだよ」
「あぁ」   『しっかりやって』か…。そういえば、今日は新しいバイト先の面接だった。芹那に言われてなければ、気づかなかったかもしれない。面接の話まで持ちこんだのに、肝心の面接日を忘れていたがために落とした…ということが、今まで実際に何度もあった。
「(あと一時間半か…)」
 既に母親は仕事に出ているため、基本的に家事は自分の仕事だ。父親は別居中である。バイトに遅れないうちに、食器の後片付けと、洗濯機をセットしておかなければならない。残り三〇分というのは、それなりに厳しいものであった。

「はぁっ、はぁっ」
 結局家を出たのは、ギリギリだった…というか、過ぎてるだろう、とっくに。並木通りのヘアピンカーブを、木に手を鉤のようにひっかけ、ぐるりと回る。面接先は、丁度、そのヘアピンを曲がった場所にあるコンビニだ。
 汗だくになりながら、コンビニのドアを開ける。中から冷たい空気が流れてきた。この冷たい空気の感覚は、つい先日まで過ごしていた上流の空気に似ていた。
「あの…」
 しかし、感慨に浸っている暇なんてものは無く、近くに居た店員さんに面接の件を尋いてみた。が、なんでも今は店主が居ないらしく、しばらく待ってくれとのことだった。あれほど急いだのは、何だったんだろうかと思う一方、幸運だとも思った。
「こんにちは」
 店の中をぶらぶらとしていたら、自分と同年代くらい…いや、少し下だろうか…女の子が声を掛けて来た。
「お兄さんもバイト?」
「あなたは?」
「実はウチもバイトやねん」
「面接ですか?」
「せや、一〇時に来い言われて、慌てて来たねんけどなー」
「残念ながら、店主はいらっしゃいませんでしたね」
「幾らバイト相手とはいえ、約束守らへんのはあかんわ」
「そうですね」
 もっとも、こちらはそれで大助かりではあったのだが。
「お兄さん、イクツ?」
「二〇」
「ほほー、ウチより二つ先輩やな。ウチは一八や…早生まれやけどな」
「それにしちゃ、しっかりした感じだね」
 お世辞ではない。頭の上のリボンさえ除けば、実にしっかりした感じだった。
「あかんあかん、褒めんといて、照れるやんか。ほんまはな、受験失敗してしゃぁないからバイトでも行こうかと思っただけで、社会のこと自体は右も左もわからへんねんで」
 右も左もわからないわりに、緊張のかけらも見えない。自分よりもずっと堂々としているように見えた。
「そうですか…じゃぁ履歴書とかちゃんと書いてきました?」
「履歴書って何?」
 求人広告に『履歴書持参』と書いてあるのに、疑問を持たなかったのだろうか…。
「あらら…。そういえば、買ったときに余分についてきたので…ひょっとしたら持ってるかも…」
 ごそごそとリュックをあさる…あった。
「はい、今書いたらどうですか?」
「あ、お兄さん気が効くなー、おおきに」
「はい、これ、ペンもどうぞ」
「ふんふん、これ、どないな風に書いたらえぇん?」
「あぁ、大体こんな風に…」
 端から見れば、これが初対面の人間のやりとりには見えなかっただろう。まさに手取り足取り説明するハメになったのだから。そもそも、女性が履歴書を初対面の相手…それも男性に対して、簡単に見せて良いものなのだろうか。

 面接は二人同時に行われた。夏季だというのに、ちょうど人手が足りなかったらしく、特に何かを尋かれることもなく、簡単な説明を受けるだけで解散となった。それだけのことだったが、オーナーという役柄の人が、いかにもヤクザ風であったこともあり、緊張のために多少肩が凝ってしまった。
 首をぐりぐりと回しながら、帰り道を歩いていると、ふと後ろから呼びとめられた。
「お兄さん、お兄さん」
「ん?」
「今日はどうもな」
「あぁ…」
「ウチも道、こっちやさかいに、一緒に帰ろっか」
「そうですね」
 二人並んで、並木通りを歩く。
「お兄さん、夕勤かと思てたら、日勤やってんなぁ」
「今、二三時まで営業とかで、『男は夜』って感じですからねぇ。一〇時以降女性は働いたらいけないことになってますから、しょうがないですけどね」
「うちは日曜だけやさかいに、よろしゅうな」
「あぁ、日曜は一緒だねぇ」
 因みに、こちらは月金と日曜というシフトに決定した。何でも、パートの主婦の人が急に来れなくなったためらしい。今は、バブル景気とやらで人手は全体的に足りない。だからこそ、枠があったのだろう。
「ほな、今週の日曜日、また会えるんやな」
「はい」
「あ、そうそう、名前何やったっけ?」
「あぁ、厨川といいます」
「厨川君やな、了解や。ウチは『沢倉』いいますねん」
「沢倉さんだね」
「で、下の名前は『美伊奈』や」
「みいな?」
「うん、ウチの名前、『美伊奈』いいますねん」
「へぇ、珍しい名前ですね」
「あはは、そうやろ。ウチのことは下の名前で呼んでくれて構へんから」
「う〜ん」
「やっぱ、恥ずかしいか?」
「そうですね」
「男のコは皆んなそんな感じやなぁ」
「そうなんですか?」
「せや、なんや恥ずかしい恥ずかしいゆーて、皆んな苗字で呼んどる」
「はぁ…」
「で、キミの名前は?」
「え、厨川ですが?」
「いやいや、下の名前」
「あぁ、『翔』といいます。『飛翔』の『翔』ですね」
「翔…しょう…君…?」
 確認するのも面倒なほど、一言一言でコロコロと表情を変えていた彼女の動きが、ふと、止まる。
「どうかしました?」
「ううん、何でも無いー。ほな、キミのことは翔君って呼んでえぇかな?」
「名前は恥ずかしいです」
「いけずぅやなぁ…えぇやんか」
「厨川で良いですよ」
「うぅ〜ん」
 角まで歩いたところで、沢倉さんが突然立ち止まる。
「あ、ウチはこっちやから」
「あ、はい」
「ほな、日曜日なー、翔君!」
「厨川です」
「わかった、またな、厨川君」
「はい、さようなら」
 こうして、初めて女友達と呼ばれるものができた。女友達だけでなく、そもそも、友人と呼べる存在は、自分には居なかった。学校の冴えない連中とは、毎日の学校生活の中でそれなりには応対もしたが、それ以上関わる気は無かったし、彼らもこちらのドライな態度を前に、それ以上突っ込んでくることも無かった。
 そんな自分なだけに、友達付き合い…いや、人付き合いそのものを、彼女から教わることになった。
 例えば、仕事中のことだ。
「やは」
「どうしたんですか、沢倉さん」
「うん、暇やからなぁ、遊びに来たんや」
「今、仕事中ですが」
「ほな、雑誌でも読んで待ってるから」
 こんな具合に、こちらの出勤日ともなれば、必ずやってきて、誘いを掛けてくる。今まで通りの対人法で付き合ってはいるのだが、彼女はこれまで見てきた人種とは、少し違っていた。独特の明るさと、前向きさが、こちらにまで伝わってくるような、そんな気分だ。
「じゃ、早めに終われるようにがんばりますね」
「うん、がんばっ、やで!」
「はいはい」
 こんなやりとりも、彼女と出会う前までは、考えられないものだった。不思議と愉快な気持ちになり、他のクルーとも、うまくいっている。
「こんにちは、厨川さん」
「あぁ、いつも早いね」  小柄で笑顔の穏やかな彼は、自分よりも三日ほど前に入ってきたらしい大学生で、七瀬という。曜日が重なっており、仕事が終わる頃になると、引継ぎで出勤してくるため、毎回会う。
「じゃぁ、ちょっと立ち読みしてますね」
「あぁ、あと一五分だな」
「へい、時間オーバーしないように気をつけます」
 いつも早めに出勤してきて、沢倉さんと二人並んで、雑誌を読んでいる。時々挨拶はするようだったが、それ以上会話しているところは、見たことが無い。
 ひょっとすると、沢倉さんという人は、誰とでも仲良くするタイプではないかと思っていたのだが、その様子を見る限り、そうではないようだった。不思議でならなかった、人付き合いの悪い自分に対して、なぜ自分に親しくしてくるのか。

 そんな具合に、バイト生活は巧いこと続いた。入荷時とピーク・タイムだけが忙しく、あとは陳列や商品管理程度をやっていれば良いので、それなりに暇を満喫できる。そんなときは、店のウィンドゥから外を眺めるのが好きだった。外はもう秋がゆっくりと浸透している感じだった。並木に、赤や黄色が混じり始めている。
「今年は良い紅葉を拝めそうだ…」
 レジカウンターに頬をつきながら、一面の紅葉を思い浮かべた。そういえば、かつて過ごした山村も、色とりどりになっていくのだろうか。
「厨川さん」
 驚いた。誰も居ないはずの店内で、突然声を掛けられたからだ。
「七瀬さんか…驚いた、いつから居たんですか…」
 見ると、七瀬だった。因みに、まだシフトの時間にはほど遠い。
「いえ、今日は折り入ってご相談がございまして」
「相談?」
「えぇ、実はですねぇ…」
 内容は呆れたものだった。なんでも『最後の一〇代、彼女ナシで過ごすなんて勿体無いですよね』だそうだ。そんなものは居なくても良い…そう思える。一〇代というのはまだまだ子供なのだ…いや、他の人から見れば、私のような二〇代の人間もまだまだ子供だろうが…ともかく、幼稚な愛はお互いを傷つけるだけだ…。
 だから、『さぁ、彼女なんて、こっちが欲しいくらいですよ』こう言ってやったのだ。それは事実でもある。だがしかし、彼の、その先の言葉には驚かされることになる。正直、驚いた。本当に、驚いた。その言葉に対して、心から動揺してしまった。そして、動揺のために、ついに彼への協力を承諾してしまった。

 今日は日曜日なので、朝からずっと沢倉さんと一緒に居た。オーナーは相変わらず朝発注が済むと、あとは何も言わずに帰って行った。日曜日のため、立ち読みはなかなか居なくならなかったが、それでも、ピークさえ過ぎれば、店内は二人きりになった。
「なぁ、厨川君」
「はい、何でしょう?」
「今日、仕事終わったら、どこ行っか?」
「はぁ、またですか」
「またまたってえぇやんか、暇なんやし」
「今日と明日はちょっと都合が悪いんですよ」
 嘘だ。
「そうかぁ、残念やけど、しゃあないわな」
「その代わり、明後日会えませんか?」
「わぉ、厨川君から誘ってくれるなんて、珍しいなぁ!! モチロン空いてるでぇ」
 嬉しそうに両手を合わせたりする…。七瀬が言っていたのは、ずばりこの辺だろう。
「えぇ、ちょっと相談事がありまして」
「ふ〜ん、相談なぁ…」
「明後日の一四時に中央公園…良いですか?」
「中央公園言うたかて、広いけどな」
「じゃぁ、時計のあるところの噴水の前…わかりますかね?」
「あぁ、あそこか、わかるわかる」
「それじゃ、そういうことでお願いします」
「任せとき☆」
 ガッツポーズを作る沢倉さん。何が『任せとき☆』なのかはわからなかったが、とにかく、その後の沢倉さんはこの上なくゴキゲンであった。いつもより数段関西弁が冴え渡り、かつ、笑顔も質・量ともに普段の倍以上をマークしていた。
「沢倉さん、なんだかゴキゲンですね」
「せやろー、せやろー」
 その笑顔を見ていると、『どうしたんですか?』とは尋けなかった。尋くのが怖いといえば、そうだ。その理由をどうしても許すことが出来ないのだ。
「いらっしゃいませー!」
 接客にも気合を入れる沢倉さん。その顔を見ないように、その日はなるべくバックルームの中で商品の整理と品出しに精を出した。
 そして、退勤時間が来ると、慌ててタイムカードを押し、逃げるような気持ちで、マンションへと戻った。

 翌日、またいつものように、沢倉さんが来るのではないかという恐怖が、ずっと心の中に影を落としていた。別に彼女自身が何か悪いことをしたわけではないし、彼女のチャーミングな笑顔は見るだけでも、幸せを感じる。まして一緒に行動すればなおさらである。だが、それらを恐怖に変えてしまう全ての原因は、全て自分にある。怖いのだ、人に特別な感情を抱かれるということが。その理由はわからなかったが、とにかく、怖い。
 ただ、今のようにお互い笑って過ごせれば良いのだ。だが、それが長くは続かない恐れがあることは直感的に悟っている。もしも、どちらかが一歩踏み出そうとすれば、それは一瞬にして崩れる。
 それでも、その不安は、きっと明日の一四時に中央公園で解消されると信じていた。ずっと友達でいられることを、私は真に望んでいたのだ。だが、違った、そこで彼女から吐き出された言葉は…。
「わたし、帰るわ…」
 がっかりしたような表情だった。彼女の期待を裏切ったのだ。では、何を彼女は期待していたのか…。この時点で、今まで単なる恐怖だったものが、確信に変わってしまった。あの親しさは、親友としてだけのものでは無かったのだ。
 もっとも、まだそれを確定づけるには、証拠が足りない…だが、確信を持たせるには充分過ぎた。
 噴水が場違いにもパァッと吹きあがる。冷たくなりはじめた風とそれに混じった枯葉だけが、この場の空気に馴染んでいた。
「厨川さん…」
 沢倉さんの姿は見えなくなってから、隣で同じく呆然としていた七瀬がやっと口を開いた。
「あぁ」
「僕に嘘ついてましたね?」
「何が?」
「何でも無い関係だって、言ってたじゃないですか」
「あぁ、そうだ…」
 そのはずだった。
「僕は、中学時代からずっと沢倉さんのことが好きで…」
 七瀬はセンチメンタルな顔をしていたが、その先のことが語られることは無かった。追って来た…とでもいうのだろうか。
「なら、なぜ中学時代に…」
「そんなっ、あの状況でそう簡単には…」
「あの状況?」
「彼女は、何でもこなせる素晴らしい人なんだっ。でも、それだけに彼女は周りから反感を買って…」
「それで?」
「それで、誰とも口を利かなくなったんだっ!」
 酷いいじめでも受けていたのだろうか。口を利かなくなるなんて、滅多なことではないような気がする。少なくとも、自分が持っている沢倉さんのイメージではない。
「なのにっ、どうしてあんただけが、あんただけにはあんなに…」
 そこまで言って、いたたまれなくなったのか、七瀬はそのまま逃げるようにして去って行った。
 風だけが、風だけがいつまでもそばに居てくれた。


 それ以来、沢倉さんの、こちらに対する態度は一変してしまった。以前のように明るい関西弁が炸裂することは無い。ただ、丁寧な敬語で…もっとも無理しているらしく、所々関西訛りではあったが…形式ばかりの挨拶だけしか交わしてこなかった。
 七瀬の方はなかなか努力しているらしく、しきりに話しかける。だが、どれも不発弾だった。その様子は、見ていて滑稽である。
 大体、以下のように…だ。
「ねぇ、沢倉さん」
「こんにちは」
「あぁ、こんにちは。えっと、ところで、今週は空いてる日とか無いですか?」
「無いです」
「ほんのちょっとでも良いので」
「せやかて、ウチは興味ないですし…」
「そうですか…ならいいです」
 七瀬が少し不憫にも思えた。もしも中学に入ってすぐの頃から沢倉さんのことを好きというのなら、かれこれ六年間以上も想いつづけていることになる。はじめ聞いたときはバカにもしたが、今となっては多少応援したい気持ちもある。彼は真に想っている。今の彼なら、傷なんてものにへこたれたりはしないだろうから。
 頑なに人を拒む沢倉さんに至っては、不幸としか言いようがない。今まで普通だと思っていた明るさが、彼女の天性のものとすれば、彼女はそれを無理に押しこめていることになるのだから。
 かつ、彼女があの明るさで人と接したならば、彼女は誰からも好かれる存在になれるだろう。彼女が、他の誰かと一緒に居るのを、今まで見たことがない。ひょっとすると、友達が居ないのではないのだろうか。
 とにかく、あのままでは二人とも不憫で堪らない。なんとかしてやることはできないだろうか。

「なぁ、芹那」
「どうしたの、お兄ちゃん?」
 夜、バラエティー番組を見ながら妹に尋いてみた。
「お前、恋のキューピットになれるか?」
 TVの中では、お笑い芸人が、恋のキューピットの格好をしてセットの上を飛びまわっている。
「何、お兄ちゃん好きな人でもできたの?」
 ポニーテールが興味津々の格好でこちらを除きこんでくる。
「いや、お兄ちゃんじゃないんだ」
「んじゃ、誰?」
「あぁ、お兄ちゃんの友達にな」
「ふ〜ん」
「とにかく、報われない二人なんだ。なんとかしてやってほしい」
「詳しくは?」
「あぁ、これから話す」
 一部始終を妹に話して聞かせた。妹はうんうんと頷きながら、聞き耳を立てていた。そして、不憫な二人に対して協力することを、約束してくれた。
 しばらくして妹の部屋に呼ばれ、作戦会議がはじまった。飾らない、でもどことなく女の子特有の良い香りに包まれた部屋で、うとうととしながら、妹の雄弁を聞く。明日は日曜日で、沢倉さんも店にくる。妹も休みの方が動きやすいということで合意し、作戦は明日決行となった。芹那はさらに詳細を詰めだした。

「ふぁ…」
 なんて目覚めの良い朝だ。こんなに気持ちの良い朝は久しぶりだ。ふかふかのベッドにやわらかい…
「やわらかい?」
 その手の先にあるものをよく見てみると、あどけない顔で眠る妹の肢体だった。
「なっ」
 なんで芹那がここにっ…と思ったが、周りを見渡してすぐ気付いた。ここは妹の部屋だ。ダメな兄貴は妹の雄弁を最後まで聞き届けられなかったのである。
「ぉーぃ、芹那ぁ…」
 小声で耳元に呼びかける。
「う〜ん…」
「せ・り・なってばー」
「うぅ〜…う?」
 まるでゾンビか何かのように、むくっと起きあがる…絡まった髪も加勢して、少し怖かった。
「おはよう」
「あ、おはよう」
「すまん、寝てた」
「あぁ、そうだね。よりによってあたしのベッドで…」
「悪い」
「うう〜ん、いいよ、昔みたいで楽しかった」
「そうか?」
 普通、この年頃の女の子なら、兄貴みたいな存在は敬遠するものだと思う。
「うん、お陰で昔の夢見たよ」
「どんな夢だ?」
「あぁ、お兄ちゃんと、ミ…あ、お兄ちゃんは時間大丈夫?」
「ふぇ?」
 やっと時計を見た。なんとまぁ、ギリギリではないか。夢の内容は気に掛かったが、今はそれどころではなくなった。
「さんきゅっ、芹那っ」
 スタンッと妹のベッドから飛び降りる。妹のベッドはダブルベッドなので、それなりの大きさだ。ちょっとうらやましい。
「あたしはもう一眠りしたら行くから…」
「あぁ、それまで充分に精気を養っておいてくれ」
「うん、おやすみ」
 そして、妹はパタリとベッドに横になってしまった。なんて可愛いやつなんだろうか。全国の生意気な妹を持つ男性から、苦情の声でも来そうなくらいだ。

「こんにちは」
「あぁ、こんにちは」
 今日も沢倉さんと形式ばかりの挨拶を交わし、そして仕事をはじめた。計画の実行はシフトの時間…つまり、退勤時間ということになる。まだ八時間もあったが、妹がうまくやってくれるか、気が気でならなかった。因みに、作戦は退勤時間になって七瀬が出勤してきたら、代わりに自分が店を見てやり、七瀬を待ち合わせ場所に行かせる。妹の方は沢倉さんをなんとか誘導して待ち合わせ場所に行かせる。後のことは妹と、七瀬自身の努力にかかっている。
「やい、厨川、働け」
 びくっとした。突然後ろから聞きなれない声がしたからである…。
「わっ」
 振り返ると、ヤクザ風の男が立っていた…。すっかり忘れていたが、この店にはオーナーが居たのだ。
「今日は暇じゃし、おまんらの働き、とくと見せてもらおうか」
 いきなり壁にぶち当たった。作戦は七瀬にタイムカードという保証をつけて、事実上替え玉をするということになる。オーナーなんて居たら、ちと厄介なことになり兼ねない。ここは一つ、なんとかして追っ払わなければ。
 ともかくも、午前中は真面目さを見せておいた方が良い。勝負は昼休みか、その後の暇な時間帯が良いだろう。

「ほうー、厨川はよう働くのぉ〜」
 せっせと動き回っていたら、褒められてしまった。掃除は徹底的にかつすばやくやり、時間さえあれば、品出しや前進立体陳列とやらをするために歩きまわった。
 お陰で、あと四時間以上も勤務時間があるというのに、ボロボロになってしまった。一方の沢倉さんはいつも通りだったが、こちらがゴキゲン取りをしているのがわかったのか、時々冷たい視線を投げかけてきた。
 店内にはビデオカメラというものはなく、鏡が設置してあるだけである。普段の自分を見られていたなら、オーナーの目にも、さぞかし嫌な奴に映ったことだろう。
 で、勝負時の昼休みだが、あっさりと敵は居なくなってしまう。
「わしは昼飯を食ってくるわ、すぐ帰るよってに、さぼるんでねーぞ」
 しかも、新たな敵の到来を予感させることとなった。くたくたになってバックルームの机にうつ伏せになっていると…
 がごっ
「ぐわっ」
「邪魔や…」
 頭を何かがかすっていった。驚いて見てみると、沢倉さんが品出し用のカゴを腕に抱いている。恐らくはこれが当たったのだろう。沢倉さんはそのまま、なんとなくぷんぷんとした動きで出て行こうとする。これは…
「(怒ってる?)」
 午前中に見せたような態度を許せないタイプだったのかもしれない。まして、オーナーから褒められたのはこちらだけなのだから、合い方は居心地が悪いかもしれない。
「あの、沢倉さん…」
「…なんや?」
 振り返った彼女の目は、想わず物怖じしてしまうような、キツイ目だった。
「いや、何でもないです…」
「ふーん」
 そしてじろじろとこちらを見ながら、バックルームを出て行った。間違い無い、怒っている。
 問題はオーナーが戻ってきた後だ。下手に沢倉さんに邪魔をされるようなことがあれば、作戦は失敗に終わってしまう恐れがある。それだけはどうしても避けたい。
 昼休みの間中、どうやってこの状況を切り抜けるかということだけを考えていた。ともかくも、オーナーさえなんとかすれば良いのだ。きっと活路は開ける。自分を信じてやってみよう。

 オーナーが帰ってきたのは、それから一時間後のことであった。ちょうど休憩時間の終了とともに帰ってきたことになる。
 良い機会だった。交代で昼休みを取る沢倉さんはバックルームに居るが、オーナーの事務机とは離れているから、特に二人が接近することは無いだろう。むしろ、これから昼の暇な時間帯になるため、うまくやれば沢倉さんに気付かれずにオーナーを口説くことができるかもしれない。
 銀行に売上金を納めるための作業は、自分が任されている。そのためには、レジ締めと呼ばれる作業を行わなければならない。銀行は三時で閉まってしまうため、このレジ締めは今から行わなければ、間に合わない。いつもこの時間帯はピーク直後ということもあって、それなりに暇なのだが…
「おぉ〜、今日は凄い客の入りじゃの〜、体育祭に感謝じゃ感謝」
 どうやら、この近くの競技場で秋の地区運動会とやらが催されているらしく、店内はトレーナーを着た人やら、それを見に来た家族やらでごった返していた。
「(マジ?)」
 心の底から、そう叫びたかった。ともかくも、一人では処理できない量の客の入りだ。時々オーナーもレジを手伝ってくれたが、それでもレジ前に行列を作るほどであった。こんな状況で、とてもじゃないがオーナーを説得なんてできるはずがない。
「はぁ…」
 ピークが過ぎたあと、身体から力が抜けて行くのを感じた。それと共に、沢倉さんがバックルームから出てくるのが、鏡越しに見えた。
「(一体なんだったんだろうか…)」

 それからしばらく仕事をしながら次の機会を待ったが、なかなか隙が無く。時間もシフトまであと一時間を残すのみとなった。
 一体、あとどのくらいのチャンスが残されているのだろうか。お客の入りが少なくて、かつ沢倉さんが居ない状況…まてよ、そんな状況があるっていうのか?!
「トイレ」
 いきなり、沢倉さんが脇に居て、そんなことを言い出す。
「はい?」
 突然のことに、思わず聞き返す。
「……」
 その態度が不満だったのか、むっとした表情だった。落ちついて沢倉さんの言ったことを思い出す…。
「あ、はい、わかりました、行ってきてください」
「レジよろしく」
 そして、沢倉さんはトイレのある角の方に消えて行った。チャンスだ。これ以上のチャンスは、もう二度と来ないだろう。
「オーナー」
 客が立ち読みばかりであるのを確認して、すかさずオーナーの元に駆け寄る。
「ん、なんじゃ、厨川」
「今日駅前パチンコがサービスデーって知ってました?」
 このオーナーなら、絶対にギャンブル好きだと思う。
「おぉ、今日はそうだったか」
「行かなくていいんですか?」
「おぉ、行きたいのぉ」
「この間、あそこで六万出しましたよ」
「なに、本当か?」
「えぇ、二一三番台なんですがね、あ、ちょっと耳貸して頂けませんか?」
 ごにょごにょと耳元で秘密情報を吹き込んだ。多少大げさには言っただが、六万出したことだけは事実だ。もちろん、それに七万つぎ込んだというのも、口が裂けても言えない。
「早く行かないと、台を取られてしまうかもしれませんよ」
「う〜む、では店は沢倉に任せて、二人で行くことにするか」
「へ?」
「あと、引継ぎまで大した時間もあるまい」
「いえ、でも…」
「なんじゃ、わしのせっかくの厚意が受けとれんというのか?」 
「いえ、決してそうではありませんが…」
 マズイ、大変マズイことになってきた。このオヤジ、言い出したら聞かないタイプだろう。怒らせたらもともこもない。
「厨川君、ウチと一緒に帰る約束してますから」
 突然、反対側…つまりはオーナーの後ろから沢倉さんがひょっこりと首を出して言った。当たり前だが、そんな約束をした覚えは無い。だがしかし、これで逃げ口実が出来たというものだ。
「え、えぇ、そ、そうなんです、約束してたんですよっ、なっ」
 沢倉さんに同意を求めると、あれ?っという表情をした。恐らく狙っていたことと違ったためであろう。彼女は純粋に嫌がらせをしに来たのだと思う。
「なんじゃ、おまんらは…」
「か、勘違いせんといてください」
 沢倉さんが、ちょっと赤くなったような気がした。ここに少し罪悪感を覚えるのは、なぜだろうか。
「そうか、ならしゃぁないのぉ、儂一人で行くことにするか…」
 オーナーもあきらめがついたらしく、しぶしぶ荷物を整理しはじめた。
「レジ、お客さん来てる…」
 ふと、沢倉さんが、こちらの背後を指差した。振り返ると、開けっぱなしにした戸の向こうで、お客がこちらをしきりにのぞいている。
「あ、いらっしゃいませー」
 レジに立つと、小さなバッグを持ってあわててトイレに入る沢倉さんの姿が見えた。なるほど、忘れ物をしたから、あんなに早く戻ってきたのか。
 …ということは、沢倉さん、今日は…。ちょっと日が悪いような気もするが、このようなことに限っては、逆にこういうときの方が、うまくいきやすいと小耳に挟んだことがある。なぜかは知らないが。

 ともかくも、うまくオーナーを追い出すことができた。あとは時間が来さえすればなんとかなる。その後のことも、妹ならきっとやってくれる。なにせ、うちの自慢の妹だ。あいつにさえ任せておけば、何も心配は無い…
 既に朦朧とした意識をなんとか支えながら、時間が来るのを、ひたすら待った。なんとこの時間の長かったことか。やっと七瀬が出勤してきたときには、思わず狂喜乱舞してしまいそうな気分だった。
 レジの引継ぎ業務が終わり、沢倉さんが着替え終えて、店を出て行くのを確認する。その後ろを、ウィンドゥ越しにこちらへウィンクして去って行く妹の姿が見えた。さて、あともう一仕事だ。
「ねぇ、七瀬さん、ちょっと良いですか?」
「はい…」
「中央公園、わかりますよね?」
「えぇ…」
「とりあえず、店は代わりに見ていますので、これからちょっと行ってきてもらえませんか?」
「へ?」
 わけがわからないという感じの彼だったが、なんとか説得して、妹が準備した待ち合わせ場所に行ってもらった。こちらで準備しているとはいえ、彼のがんばりは欠かせない。是非ともがんばってほしいものだ。最良の状況を作って、ぶっつけでやらせるという、なかなかキツイ作戦だが。

 ぼぅ〜っとして店内で待っていると、七瀬が戻ってきた。そして、目の前で一礼し…
「ありがとうございました」
 それだけを言って、バックルームに入っていった。どうやら、作戦は成功し、彼は沢倉さんの信頼を得ることが出来たようだ。良かった本当に良かった。
 交代をし、精神的にも肉体的にもボロボロになった体を支えながら店を出ると、妹が待っていた。
「お疲れ、お兄ちゃん」
「あぁ、芹那もお疲れ」
「作戦、成功したよ」
「あぁ。さすがだな」
 今日の功労者に対して労いの言葉を贈った。だが、妹の顔はどことなく寂しそうに見えた。
「…本当に良かったの?」
「何がだ?」
「あの人、『沢倉 美伊奈』って…」
「あぁ、そうだけど」
「ミーナちゃんでしょ?」
「ミーナ?」
 そんな名前の人は知らない。外国の人だろうか…。
「昔、お兄ちゃんと一緒に居て…」
「そんな人居たか?」
「お兄ちゃん、憶えてないんだ」
「いつの話しだ?」
 憶えてるも何も、そんな人は初耳だ。
「あたしがまだ七歳くらいのとき…」
「そんな昔か…」
「ミーナちゃんのこと、覚えてない?」
「ミーナ…」
 まてよ、そういえば……

* 4 *

 思い出した、何もかも思い出した。罪多き約束。
 ちょうど、一〇歳の誕生日が近かった頃だった…

「うぇっ、うぇっうぇっ」
 みちばたで、リボンをしたおんなのこが泣いているのをみつけた。泣いているひとがいたら、たすけてあげなさいって、先生にいわれていたから、ボクはその通りにした。
「ん、どうしんだ、おまえ?」
「うぅっ、ひっく、ひっく」
「泣いてるばかりじゃわかんないぞ」
「うぐ…みち、わからんように、なってん…」
「そうか、おまえ、迷子か」
「うぅっ、うぇっ、うえぇぇん」
「ばかっ、泣くなっって」
「うん、ひっく、ひっく」
「おまえの家、ちかいのか?」
「ウチの家、おおさか…」
「大阪? じゃぁ、おまえ、旅行に来てんのか」
「おばあちゃんち…」
「そうか、親戚の家に来てるんだな」
「…うん」
「じゃぁ、その親戚の家はどこだ?」
「わからへん…」
「めじるしとかないか?」
「わからへん…」
「そうか…」
 どうやら、どうしようもないらしかったので、いっしょに交番まで行った。でも、なぜかお巡りさんはいなかった。しかたないから、ふたりでずっと歩きつづけた。
「このみち…」
「みおぼえあるのか?」
「うん、みたことあるような気がする」
「そうか、よかったな」
「うん」
 おんなのこはにっこりと笑った。この笑顔をみているととてもきもちよかった。もっともっと笑わせてやろうとおもった。
「なぁ」
「うん?」
「こんなの知ってるか、べろべろ〜」
 さいきんテレビを見ておぼえた芸をひろうしてみせた。
「なんやそれ、けったいやなぁ〜」
 コロコロと笑うおんなのこを見て、ボクも笑った。
「ここや、おばあちゃんち」
「もうついたのか」
 でも、ボクはなんとなくさみしかった。このおんなのこの笑顔をもっと見ていたかった。
「なぁ、あがっていかへんか?」
 おんなのこの方も、ボクの気持ちをしっていたのか、それとも、おんなのこもおなじ気持ちだったのか、ともかくもボクとまだいっしょにいたかったみたいだった。
「あ、いいのか?」
「いま、おばあちゃんに聞いてみる」
 そして、おんなのこは大声でおばあちゃんを呼んだ。中からよぼよぼのおばあさんが出てきた。
「おぉ、美伊奈ちゃんかえ、急に居なくなったんで、心配したんやぞ」
「おばあちゃん、おともだちできたの」
「おぉ、おぉ、良かったのぉ。ささ、あがってもらいなさい」
「うん!」
 家のなかにあがらせてもらった。古い家だった。床がぎぃぎぃとなった。
「ところでさ」
「なんや?」
「おまえ、『ミーナ』っていうのか?」
「うん、ウチは『みいな』やで」
「そうか、おぼえたぞ」
「キミはなんていうの?」
「ボクははばたくの『しょう』」
「かんじ、わかんないよ」
「とにかくボクのの名前は『しょう』だ」
「うん、わかった。よろしくね、しょうくん」
 それからおかしをもらって、夕方まで遊んだ。楽しかった。あしたも遊ぶ約束をしてから、帰った。

「『ゆうえんち』?」
「せや、にちようびなんやけど、いっしょに行かへん?」
 いつものように、ミーナと遊んでいたら、なんだかわからないけど、きゅうにさそわれた。
「う〜ん、おとうさんにきいてみるよ」
 家に帰って、すぐにおとうさんとおかあさんにきいてみた。
「なにぃ、今度の日曜に遊園地に行ってもいいかって?」
「どうしたの、翔? 急に言い出すなんて…」
「さそわれたから」
「誰に誘われたの?」
「ミーナ」
「ミーナ? どこのお子さんなの?」
「大阪」
「大阪?」
「ちかくに、おばあちゃんちがあるんだって、いま、そこにいる」
「へぇ、それでお友達なのね」
「うん」
「かーっ、女に誘われてだなんて、お父さんは絶対反対だぞ」
 このとき、おかあさんの顔がむっとしたような顔になった。
「あなた、その言い方は何よ!」
「なんでお前が怒るんだよっ!」
「何かあったら、女女って、あなたのその差別的な態度が気に食わないのよっ!」
「なんだって、このやろう!」
 おとうさんがおかあさんの頭をポコッとなぐった。
「痛っ、なにすんのよ」
 おかあさんはすごい顔をして立ちあがって
「翔、もう部屋で寝てなさい!」
「でも…」
「いいから、寝てなさいっ」
 こわかった。ボクはなにもいえずに、そのまま子供部屋へにげて、自分のベッドでふとんをかぶった。
「またケンカしてるね」
 下のベッドの中から、いもうとがはなしかけてきた。ボクといもうとはおなじ部屋だ。二段ベッドの上がボク、下がいもうとだ。
 おねえちゃんもいるけど、ボクよりここのつもうえだから、あんまりあそんでもらったことがない。それに、たばこも吸うし、髪はきんいろだし、おこりっぽいし、なんだか、きょうだいみたいにおもえなかった。だから、ボクはいつもいもうとといた。
「ボクのせいなのかな…」
「おにいちゃんはわるくないよ…」
「でも、ボクが『ゆうえんち』なんて行きたいっていいだしたから…」
「せりなも遊園地行きたいな…」
「もういっかい、おねがいしてみるよ」
「せりなもおねがいしてみる」
「いっしょにおねがいしよう」
「うん、じゃぁ作戦会議だね!」
「さくせんかいぎ?」
「おにいちゃん、こっちきてよ、ひみつの作戦会議だよ」
 ボクはいわれるままに、下におりて、いもうとのベッドの中にもぐりこんだ。いもうとのふとんの中はとてもあたたかかった。
 でも、ひみつのさくせんかいぎもむなしく、ボクらのいうことはきいてもらえなかった。ボクはミーナにそのことをいった。ミーナはがっかりしていたけど、かわりにどようびにめいっぱい遊ぶやくそくをした。

 いもうともあわせて、三人で遊んだ。
「ほら、コーヒーカップだぞー」
 ミーナといもうとをダンボールに乗せて、ボクがそれをぐるぐるとまわす。そのうちめがまわって、世界が逆転してしまった。
「あ、しょう君、大丈夫?」
「あははーっ、おにいちゃん、めがまわっちゃったねー」
「あははは」
「あははは」
 バカになったんじゃないかとおもうくらい、笑った。ミーナの笑顔も、いもうとの笑顔も、ボクにとってかけがえのないものだった。
 ずっと、こんな風に笑っていられるんだとおもっていた。でも、げんじつはちがったんだ。その日、帰るときになって、ミーナがボクにおわかれをいった。
「じゃぁ、こんどはげつようびだなっ!」
「うぅん、げつようびには、もう会えへんねんで」
「なんで?」
「あした、遊園地にいったあと、そのまま大阪へ帰るんや…」
「そんなっ」
「冬休み…冬休み、もう終わってまうから…」
 かなしそうな顔だった。またであったときみたいに、泣いてばっかりのミーナになってしまうんじゃないかとおもった。でも、ミーナはちっとも泣いてはいなかった。ただ、かなしそうにボクと、いもうとを見ているだけだった。
 それから、おわかれをいってから、ミーナのうしろすがたを見送った。あたまの上にちょこんとのっている、あかいリボンが見えなくなるまで、見送った。
「おにいちゃん、だいじょうぶ…?」
 ボクはしらないうちに泣いていた。なんで涙が出るのかわからなかったけど、涙をとめることができなかった。
「せりな、帰るぞ」
「うん…」
「あ、それからな…」
「うん?」
「あした、『ゆうえんち』だからなっ、早く寝るぞ!」
「うんっ!」

 この辺にある『ゆうえんち』といえば、一つしかない。だから、ボクはぜったいそこにミーナがいると思っている。
「せりな、このことはおとうさんやおかあさんにはナイショだからな」
「うん、ナイショナイショ」
 ボクは、貯金箱に入っていたおかねをぜんぶポケットにつめて、いもうとと遊園地行きのバスに乗りこんだ。そのおかねをもういちどかぞえなおす。ひぃ、ふぅ、みぃ…。
「いいか、きょうは中に入るだけだからな、乗りものには乗れないからな」
「わかってるよ」
 せりなはきき分けよくうなずいた。ほんとうはいろいろ乗りたいのにはまちがいないんだ。でも、せりなはいい子だから、決してそのようなことはいわない。
 おとうさんやおかあさんからおこられるのはいつもボクだった。せりながおなじことをしても、ボクだけがおこられる。でも、そんなとき、いつもせりなはもうしわけなさそうに、ボクの顔を見るんだ。
 はじめはむかついて、いじめたりした。でも、ボクがやさしくすると、せりなは本当にうれしそうにボクに笑顔を向けてきてくれた。ボクはそれが見たくて、いじめをきっぱりとやめた。
「さ、ついたぞ」
「うん」
 バスをおりてからしばらく歩くと、『ゆうえんち』にすぐについた。
「すみません、こども二枚…」
「はい、子供二枚ね…、あら、あなた達二人だけで来たの?」
「…え〜っと…」
 どうこたえようかなやんでいると…
「はい、ふたり」
 いもうとが先にこたえた。やっぱり『しょうじき』がいいかな。 
「そう、ふたり」
「あら、そうなの…。もしも、おにいちゃんとはぐれちゃったりしたら、すぐに近くの大人の人に言うのよ」
「せりな、おにいちゃんの手はぜったいにはなさないから、だいじょうぶだもん」
「わっ、せりなっ!」
 ちょっとはずかしくなって、おもわずいもうとの手をふりほどいてしまった。でも、すぐにいもうとはだきついてくる。
「うふふ、おにいちゃん、しっかりね。あ、それと、これはね…」
 受けつけのおねえさんは、ポケットをごそごそとやりはじめた。
「中でやってるアニメの上映会のチケット」
「わぁ、ありがとう」
 いもうとがとびはねながら、チケットをうけとった。やっぱり遊べた方がたのしいに決まってる。いもうとはほんとうにうれしそうだった。
「じゃぁ、楽しんできてね」
「ありがとうございました」
「おねえさん、ありがとう〜」
 きゃっきゃっとはしゃぎ回るいもうとをおさえながら、おねえさんにお礼をいった。

「居ないね」
 ベンチで休んでいたら、いもうとがためいきといっしょにつぶやいた。たくさんさがしたのに、ぜんぜんミーナはみつからなかった。
「まだまだ、あきらめないからな」
「おにいちゃん、これ…」
 いもうとの手には、入場のときにもらったチケットがあった。
「それはミーナをみつけてからって約束しただろ」
「でも…」
 いもうとは、いきたくていきたくてしょうがないのだ。もうすぐ、最後の上映がはじまる。ミーナを探すのは大切なことだったけど、いもうとをかなしませたくはない。
「じゃぁ、さきにちょっとだけ見に行くか」
「うんっ!」
 上映会は、ここのマスコットキャラクタがしゅじんこうのおはなしだった。二年生のいもうとにはちょうどよかったみたいだけど、四年生のボクには、ちょっとつまらなかった。
 出てみると、すっかり日がくれていた。閉園じかんまで、もうあと一〇分くらいしかなかった。
「なぁ、せりな」
「なに?」
「たのしかったか?」
「うん、たのしかった」
「そうか、これからすぐそこにある列車を見に行かないか?」
「れっしゃ?」
「ミーナ、ここに来てからそのまま帰るって言ってたよな」
「あ…うん」
 駅はここを出てすぐの場所に一個ある。ここに寄ってからなら、あそこで列車に乗るにちがいないんだ。

 改札口から少し離れたところに、見なれたあかいリボンがあった。顔は見えなかったけど、でもボクはそれがミーナだと、すぐにわかった。
「ミーナ!」
 ボクがその名を呼ぶと、リボンがくるりと回った。その顔は、まちがいなく、それはミーナだった
「しょ、しょう君、どうして…」
「みおくりに来たんだよ」
「来たんだよ」
 いもうともつづけた。
「でも、もういかへんと列車がきてまう…」
「いいんだよ、見送りだから…」
「なんだ、美伊奈、お友達か?」
 向こうがわから、ネクタイすがたのおじさんが歩いてきて、ミーナのうしろで立ちどまった。たぶん、ミーナのおとうさんだとおもう。
「はじめまして、『くりやがわしょう』といいます』
「『くりやがわせりな』といいます」
「そうか、友達ができたのか、良かった良かった」
「なぁ、おとうちゃん、あともうちょっとだけえぇでしょ?」
「いいけど、でも、発車までそんなにないからな」
 ミーナのおとうさんは、しょっちゅう時計を気にして、おちつかないかんじだった。
「しょう君、せりなちゃん、もう少しいっしょにいられたらよかったんやけどね…」
「あぁ、そうだね」
「そうだね」
「でも…」
「でも?」
「かならず、ボクは会いにいくから」
「ほんと?」
「あぁ、大阪のミーナの家のすぐちかくにひっこしするよ」
「え、ほんま?」
「あぁ、まいにちだって遊んやる」
「わぁ、やくそくやで」
「ただし、じょうけんがある」
「じょうけん?」
「ぜったいにボクのことをわすれないこと」
「うん、わかった」
「ぜったいだからな、ボクのことたしかめようとしたら、おこるからな」
「だいじょうぶやて、ウチ、なんねんたってもしょう君のことはわすれへん」
「よし、ならゆびきりだ」
「うん」
 ミーナのちいさなゆびが、ボクのゆびにからまってきた。あったかいゆびだった。
「さて、そろそろ時間だ。翔君と芹那ちゃんだったかな…、この子は、先月に母親を亡くしてから、ずっと人と話せなくてね…。ぜひ、これからも友達で居てやってくださいね」
 ミーナのおとうさんが割ってはいってきた。なんだかそわそわしている。もうおわかれのつもりでいったんだとおもう。
「あ、そうだ、おてがみかくから、じゅうしょおしえて…」
 ミーナはごそごそとバッグをあさって、メモとえんぴつを取り出した。
「あ、なら、こっちにもおしえてよ」
 ボクもリュックの中に入れておいた、メモとえんぴつを出す。
「おい、ミーナ時間無いぞ」
「うん、もうちょっと…」
「だめだ、美伊奈、もう列車が来た!」
 まだ書きおわらないうちに、ミーナのお父さんはミーナの手を引っ張っていく。
「あっ…」
 ミーナの手からはなれて、ひらひらとちゅうに舞うメモ…。
「ミーナ、てがみはいい、きっとかならず会いにいくから」
「うん、ウチ、しんじてる!」
「じゃぁ、またなー!」
 さいごのへんじは聞けなかった。もう、ミーナは見えなくなっていたからだ。あきらめてあしもとに落ちていたメモをひろう…やっぱり、とちゅうまでしか書いてなかった。でも、ミーナの住んでいる町のなまえはわかった。

 ミーナとおわかれしてから、しばらくたった。ボクはもうミーナのことをおもいだして、いてもたってもいられなかった。
「ねぇ、おかあさん」
「なに?」
「ひっこしとかしない?」
「翔、突然何を言い出すの?」
「大阪にひっこし」
「あんた、大阪がいいの?」
「うん、大阪がいいんだ」
「バカ言ってんじゃないわよ、お父さん、仕事だってあるんだし」
「じゃぁ、旅行」
「翔、あんたね、最近変よ」
「だって…」
「だってじゃないっ! うちの家計は大変なのよ、わかってる?」
「うん…」
「お父さんもお母さんも苦労してるの、お姉ちゃんだって毎日アルバイトしてるでしょ?」
「うん…」
「あんたが何したって言うのよ、この間のテストだってロクな点数じゃなかったじゃないの!」
「うん…」
「いーい、今度変な事言い出したら、お母さん、本気で怒るからね!」
「うん…」
 ボクは『いえで』を決行した。よくテレビで主人公が『いえで』をしているのをみたから、こういうときはそうするのがいいとおもった。
 おとうさんのつくえの上にあったおかねで、大阪までのきっぷも買えた。ちょっと悪いことをしたような気持ちになったけど、でも、しかたなかったんだ。
「おにいちゃん!」
 改札を出ようとすると、うしろからいもうとのこえが聞こえた。
「せりな、どうしたんだ、こんなところに…」
「おにいちゃん、これ」
 せりなはそう言って、小さなつつみをボクにさしだした。
「これ、おべんとう?」
「うんっ、せりながいっしょうけんめいつくったの」
「そうか、ありがとうな」
「おにいちゃん、かえってくるよね…」
「それはわからない」
「せりな、おにいちゃんがかえってくるの、ずっとまってるからね」
「そうか、せりながまってるならはやくかえらないとな」
「うん、まってるから、はやくかえってきてね」
「あぁ、ならよていへんこうだ。はやめにかえるようにする」
「うん、じゃぁ、いってらっしゃい」
「あぁ、いってくる!」
 列車の中で、べんとうばこを開けた。へんな形の、でっかいおにぎりが三個はいっていた。ボクはその中から一つだけとりだすと、べんとうばこを閉じた。

 ミーナの住んでいる町には、駅員さんにどういったらいいかたずねたら、けっこうかんたんに着いた。じっさいにはひょうごというところだったらしい。
「ここが、ミーナの住む町なのか…」
 家やマンションやアパートがたくさんあった。いったい、ミーナはこの中のどこに住んでいるんだろう…。
「あの、すみません、この辺にミーナはいませんか?」
 とりあえず、ちかくのおばさんにきいてみた。
「あら、ミーナって何? 外人さん?」
「ちがいます」
「じゃぁ、猫の名前かしら?」
「にんげんのおんなのこです」
「ふぅ〜ん…それよりも、ボク、見慣れない子だけど、学校は? お家はどこ?」
「あ、すみません、もういいです、では」
「あ、待ちなさい…」
 ボクは、走ってにげた。こんなふうにしてなんどかミーナのことをきいていたら、あっというまに、夜になってしまった。ボクは団地のこうえんでいもうとのくれたさいごの二つのおにぎりを食べた。おいしかった。もうつめたくなっていたけど、いもうとのあたたかい味がしたような気がした。食べおわって、あしたはミーナと会えるように、お星さまにおねがいして、ねた。

「すみません、ミーナっていう…あっ」
 つぎの日、ミーナのことをきいていたら、とつぜんおまわりさんがきて、ボクをつかまえた。
「さぁ、つかまえたぞ、家出坊主」
「わ、わ、はなして、ボクはミーナに、ミーナに…」
「こら、坊主、大人しくしろ」
 そのままボクは交番につれていかれて、たくさんおせっきょうされた。おかあさんは、むかえに来ると、なんどもおじぎしてあやまっていた。
 家にかえるとき、ボクにおかあさんはなにも言わなかった。家に着いたら、おとうさんがいないのにきづいた。おとうさんのことをおかあさんにきいたけど、何もこたえてはくれなかった。ただ、ときどき…
「どうしてこんなことに…」
 とつぶやいているだけだった。いもうとにきいたら、おとうさんとおかあさんはべつべつにくらすんだと言ってた。
 それから、ほんとうにひっこしすることになった。大阪だったけど、ボクはちっともうれしくなかった。ミーナの家からはとおかったし、それに、たった一人のいもうとは、だいすきだったいもうとは、おとうさんにとられて、ボクの前からいなくなってしまったから…。

 自分はそのときになって『現実』というものがどういうものかを知り、そして『絶望』という苦い苦い味を覚えたのだった。
 そのときから、『ボク』は『ボク』じゃなくなった。簡単なことでくじけてしまうような弱い『ボク』は、もう要らなかったのだ。
 『ボク』を捨てた自分は、すぐに無関心・無感動というものを身につけていた。ただ、その代償は…そう、記憶だった。自分は自分の中の『ボク』という存在が許せなくて、その記憶すらも許せなくて、そして鍵のついた箱の中に、『ボク』と共に厳重に仕舞い込んだのだ。
 だが、『ミーナ』の方は違った。恐らくずっと待っていてくれたのだろう。いつかきっと、約束通りに同じ町に住むことを願って…。だから、再会したときも、彼女は親近感を持って接してきたのだ。そして、約束通りに、こちらを確認することはしなかった…。彼女が培ってきた想いは、一〇年の時を越え、相手がすっかり変わり果ててしまっていても、曇ることは無かったのだ。
 両親が別居したとき、妹と一緒に居ることができたなら、自分もこんな風にはならなかったかもしれない。妹が父親のもとを離れ、こちらに来たのは、高校に入ったのときのことだ。この近辺にある自分が通っていたのと、同じ高校に受かったというのが理由だったが、妹にしてみればこちらへ来るための口実に過ぎないと思う。父親を傷つけずにこちらへ来るには、その方法が適当だからだ。だが、その頃には既に自分は高校三年。既に自我は形成されきっている。妹という心の緩和剤も、もう効き目が無かった。
 せめて、ミーナとの約束は憶えていたかった。約束は、相手が憶えていなければ決裂してしまう。そんな約束なら無い方が良い。それはただの苦しみでしかあり得ないから。
「なぁ、芹那」
「なに、お兄ちゃん?」
「二人、うまくいきそうだったか?」
「うん、あの状況を見る限りでは…」
「なら、いいじゃねぇか」
「でも、お兄ちゃん…」
「いいんだよ、昔のことは、もう無かったことなんだ…」
 楽観的に見ていることを妹主張したくて、大きく背伸びをして見せた。
「……」
 だが、妹は腑に落ちない様子だった。ずっと、無言で何かを語りかけていた。とてもじゃないが、その顔を直視することは、自分にはできなかった。そして、伸ばした小指がこんなにも熱く感じるのは、なぜなのだろうか。


 気がつくと、ディーゼルカーに揺られていた。かつて姉の姑に鍛えられた地に向かうためである。もっとも、今回の目的は鍛えられることではない。『約束』という言葉が、あの少女のことを思い出させずにはいられなかったのだ。
 果たせない約束はもうこりごりだった。バイトで溜めた金のうち、自分の小遣いとなる分はすべて持って来た。宮廷料理でも、なんでもご馳走してやる。
 時間が経つにつれ、窓の向こうは、次第次第に街の色が薄れて行った。小さな無人駅を経て再びディーゼルカーが動き出したとき、自分の隣に女の人が立っているのがわかった。
「お隣、いいかしら?」
「あ、はい、どうぞ」
 周りを見渡してみたが、別に他に席が開いていないわけではない。
「悪いわね、あたし、座席はいつもここって決めてるのよ」
「はぁ…」
 ほとんど誰も居ない車内の中を、見ず知らずの二人が並んで座る…こんなこともあるものかと思った。袖振り合うも多生の縁とは言うが、これが宿縁だとすると、自分は前世を恨みたい気分だった。
「ねぇ、あなた結構若いけど、学校は?」
「学生じゃありません…」
「じゃぁ、仕事は?」
「フリーターです」
「あら〜、この時期に?」
「じゃぁ、あなたは何だっていうんですか?」
「私? 私はねぇ…、何だと思う?」
「知りません」
「雑誌社のライターよ」
 今この一瞬を機に、全世界に存在するジャーナリストというジャーナリストのことが嫌いになった。終生変わらず嫌いでいられる自信がある。
「はぁ、で、今は仕事中なんですか?」
「まぁ、そんなとこね」
 そんなとこ…とは何だろうか。仕事にはなるが、仕事目的ではないとでもいうのだろうか。
「聞いて、これは私がこの仕事をはじめたときから調べてることなんだけどね…」
「はぁ…」
「キミも同和教育とかで部落差別の話は聞いてるでしょ?」
「はぁ…」
 なんか、話しがキナ臭くなってきた。
「あの部落民の差別的な待遇を無くすために、各地で施策が採られたんだけど」
「はぁ…」
「京都市だけはその施策の状態が異常で、むしろその部落施策が原因で新たな問題を生み出しているの」
「はぁ…」
 そんなことを言われても、自分には何が何だかよくわからない。
「あなたも聞いたことないかしら? 京都市清掃員の起こした事件とか…」
「はぁ…」
「驚いたことに、公務員ともあろう職業なのに、その事件を起こした人は復職しているの」
「はぁ…」
「まぁ、この話しは置いといて、ともかくも、出産・就学・就職・結婚・葬儀のいずれも、この部落施策でまかなわれているの」
「はぁ…」
「で、私がなぜこの部落問題について取材をはじめたと思う?」
「さぁ…」
「それはね…この問題はタブーとされていて、かつ誰も興味を示さないからよ」
「はぁ…世間と逆行してますね」
「そうよ、私はこの記事を書くことに命を賭けてるの」
「はぁ…」
 話を聞くうち、彼女と目的地が同じであることがわかり、大いに落胆した。彼女の話しは、ついに目的の駅に着くまで延々と続き、解放されたのは、車両から地面に降り立ったときであった。
「いやぁ、あなたに話せたお陰でスッキリしたわ。私は西京出版の三田村っていうの、また会ったら話しを聞いてね、じゃぁ」
「はぁ…」
 もしも神様が居るのならば、自分はもう二度とこの人と出会いませんように、お願いします。 

 さて、会いに来たとは言っても、心当たりの場所は夜中に会った川辺と、お堂のところしか無い。仕方が無いので、通りすがりの人に手当たり次第尋いてみた。
「すみません、瞿裕という女の子、知りませんか?」
「あら、あなたは美甘さんのところの…」
「えぇ、厨川です」
「たしか嫁入りしてきた方の弟さんでしたわねぇ…」
「えぇ、ところで、瞿裕という女の子は…」
「あ、もうこんな時間。悪いけど、じゃぁ」
 皆んなこんな具合だった。まるで蓋でもしておきたいもののように、話しを別の方向へ逸らそうとするのだ。
 さて、あても無く歩きまわっていると、とある民家を通り過ぎたところで、どこかで聞いたような声が中から聞こえてきた。
「んじゃ、お母さん、私、そろそろ行くから」
 そして、その家の中から出てきたのは…
「あらぁ、あなた、さっきの…」
 さっきの三田村とかいう女の人だった。もう二度と神様なんて信じるものか、そう、心に強く誓った。

 屋敷の中に入って気付いたが、この建物は非常に歴史が古い建造物であるということだ。大正、明治…いや、ひょっとすると江戸時代の建物かもいれない、部屋の中央にある古めかしい囲炉裏がそれを物語っている。
 姉が嫁いだ先の家も古かったが、こちらはもっと歴史が長い感じだ。物珍しく、天井の梁などを見渡していると、三田村嬢とその母親が菓子と茶を持って、目の前に座った。
「どぉ、なかなか古い家でしょ?」
「えぇ、天井の梁なんて今にも落ちてきそうです」
「やだ、それ、皮肉ぅ?」
 三田村嬢はなにが可笑しいのか、けらけらと笑っている。子供っぽい人だ。
「ささ、大したもんはないけど、まぁ、お茶でも飲んでや…」
 母親の方が、古びた手で、これまた古びた湯のみをこちらに滑らす。
「あ、どうも」
 軽く会釈をして向かえる。極普通のやりとりではあるが、この建物の中では、非常に良い絵となった。
「ほな、あとはお若い者同士で…」
 しかし、なんだろうか、まるでお見合いでもしているような言い方だ。心底嫌だった。
「やだ、お母さんったら」
 三田村嬢はその大きな口を隠すかのように、手で覆って笑っている。
「三田村さん、あなたはこの土地の出身なんですよね」
「えぇ、たまにお母さんの様子を見るために戻ってるわ」
「なら、ちょうどいい。この辺に瞿裕という女の子は知りませんか?」
 ともかくも、今はどんな些細な情報でも知りたかった。
「くゆ? 聞かない名前ね」
「そうですか、中学生くらいの感じなんですが…」
「う〜ん、私、しばらくここには戻ってなかったから、その間に越してきたのかしら?」
「そうなんですか」
「少なくとも、三年前までの情報ならわかるわ。こんな小さな山村だと、皆んな有名人だから」
「そうですか…」
 確かに、この村に住む多くの人は、瞿裕のことを知っているだけは知っている様子だった。
「そういえば、家出少女の話なら聞いたことあるんだけど…」
「家出少女?」
「そう、さっき列車の中で話してたことと関係あるみたいなんだけど」
 ディーゼルカーの中で聞いた話は、全て左の耳から右の耳に抜けて行ったから、よく覚えていないのだが。
「とある女の子がね、家出したのよ。『部落施策は嫌だ!』って…」
「…部落施策と家出とどう関係があるですか?」
「そうよ、部落施策っていうのは土地にかかる施策なの。だから、その土地に住まなければ、施策は受けられないのよ」
「はぁ…」
 いまいち、返ってきた答えが、自分の疑問とは食い違っている。そもそも施策というものは、自分達から見たら、羨ましいものにしか見えないのだが…。
「それでね、その女の子はすぐに見つかったんだけど、でも、親の方が受け取ろうとしなかったの」
「へ? それで、どうなったんです?」
「えぇ、なんでもその両親の古い友人が住んでいる土地だったから、そのままその家に預けられたっていうんだけど…」
「その話が瞿裕のこととどう関係が?」
「この辺で起きた話だって言うし、ひょっとして、あなたが言う、その『うゆ』って子と関わり合いがあるんじゃないかと思って…」
「『うゆ』じゃないです、『瞿裕』です」
「あぁ、そうなの、ごめんね、難しい名前は覚えないのよねぇ〜」
「はぁ…」
「ともかく、私も調べてあげるわ。袖振り合うもなんとやらってね」
 彼女には悪いが、背筋がぞっとする言葉だった。
「遠慮しておきます」
「いいのよ、遠慮しなくてぇ…」
「いえ、お仕事忙しいでしょうし」
「いいのよ、そんなこと気にしなくても」
「でも…」
「それに、ひょっとしたら、私の仕事と関係あるかもしれないでしょ!」
 不器用にウィンクをされた。この瞬間、負けを確信した。下手に抵抗して怒らせたらえらいことになる。生き抜くために少しだけ残されていた動物的本能が、そう警告を発していた。
「はぁ…」
「とりあえず、お母さんになんか聞いてみましょ」
「はぁ…」
 もはや、抵抗する余地も無い。三田村母の話では、瞿裕という名前の少女が、この近くに住む篠崎さんという人のお宅に居るらしかった。その情報を頼りに、なんとか瞿裕を探し出すことにした。なんとかついてこようとする三田村嬢を追い払って…。

「すみません、篠崎さん、お留守ですか?」
「はいやー、こっちやでー」
 裏の方から中年女性の声が聞こえてきた。どうやら、畑の方らしい。
「あ〜、終わるまで待ちますので〜」
 何やら忙しそうだったので、待つことにした。時間は割りとあるはずだったのだが、なんと日暮れまで待たされた。
 ともかくも、瞿裕の話を聞き出すことには成功した。なんでも、瞿裕は数日前から行方知れずらしい。なぜ悠長にしているのかを問い詰めてみると、瞿裕はこのようなことをこれまでに何度も繰り返しており、慢性化しているということ。それと、瞿裕は数年前に古い友人に預けられた娘だということがわかった。気のいいこのおばさんからは、これ以上聞き出すことはできなかった。
 瞿裕は部落出身なのだろうか…。三田村嬢の話しが本当であれば、その可能性は大きい。だが、そうでないという可能性もある。今、心の中で何か大きな影がうごめいているのを感じた。

* 5 *

 帰りのディーゼルカーの中。今、自分が座っているこの車両の椅子は、間違い無く瞿裕と別れたときと同じものだ。同じ最終便であるし、前の座席に付着しているシミのようなものに、見覚えがある。
 瞿裕は、今、一体どこに居て、何をしているのだろうか。そんなことばかりを考えていた。もはやミーナの時と同じ轍を踏む気は無い。ミーナの時のように派手ではないが。当事者にとって、約束の重みに大小は無い。相手を縛り付けてしまう力は、その人がどのくらい純粋であるかどうかで決まるのだから。 
 そして、約束を果たせなかった方も、辛い。約束を守るための努力をする余地もなかった自分が情けなく思う。この胸が取り外せるものならば、取り外して一時でも楽になりたかった。
 ともかくも、あの少女はきっと純粋だ。ミーナと同じくらい純粋に違い無い。あの時のパーカーは、まだ持っているだろうか。きっと持っているに違いない。
 どこかで寒さに震えているなら、自分にできることは、そっと暖めてあげることだけだ。あの少女が家出少女というのなら、きっと淋しさに心を侵されているに違いない。会ったらまず、そっと暖めてあげよう。そう、心に誓った。

 家の近くの駅に着いたころ、もう既に外は真っ暗だった。
「やっぱり、夏とは大違いだな…」
 もう冬が近いのではないかと錯覚すらしてしまう。風はだいぶ冷たくなっていた。
「うぅっ、寒っ」
 ベストのポケットに両手を突っ込んだ。だが、プラットホームのベンチにうずくまるようにしている一つの影を見たとき、その手はベストを身体から引き離し、そしてその影にそっと掛けていた。
「そんな薄着じゃ、寒いだろ」
「……」
「運が良いよ、普段は別のホームを使っているから、こっち通らないんだ」
「……」
「運命…かな」
「うんめい?」
「そう、運命だよ…そのパーカー、返しに来たんでだろ?」
「…うん」
「バカだな…、どこに住んでいるかもわからないのに…」
「バカでいいです…お陰で風邪をひかずに済みましたから…」
 やつれた顔で、精一杯微笑みかけてくる少女を前に、思わず、我慢できずに抱き締めていた。
「…あったかい」
 彼女はそう言ったきり、ぐったりとなって反応が無くなってしまった。
「瞿裕っ!」
 一瞬冷やりとしたが、安心したせいで気を失ったのだろう。すやすやと寝息が聞こえた。
「困ったな…」
 このままの状態で一体どうやって家まで連れて帰れと…。

 結局、タクシーを呼び、駅員さんにも手伝ってもらって、やっと瞿裕を連れて帰ることができた。
 問題はタクシーでマンションの前についた後だった。とりあえず運転手さんに待ってもらって、強力な助っ人を呼びに行く。
「芹那ー、芹那ー!」
「どうしたの、お兄ちゃん? 凄い顔して…」
「いいから、来るんだ」
「わわっ」
 強引に妹の手を引っ張った。
「いいか、芹那は足の方を持て、そっちの方が軽いからな」
「うん、わかったよ」
 瞿裕の身体はそれほど重くはない、二人で持てば妹の力でも、軽々と持ち運べる。
「うんじゃ、どうもお世話になりましたー!」
 運転手さんにもお礼を言っておいた。
「おぉ、青年、がんばれよ!」
 何をがんばるんだかわからなかったが、とにかく、妹と共に瞿裕を抱えて、せっせと階段を登った。
「ねぇ、お兄ちゃん、この娘、どうしたの?」
「あぁ、この娘、瞿裕って、いうんだけど、そこの、駅で、拾った」
 いくら軽いとはいっても、負荷をかけての階段トレーニングと同じことをしているため、二人とも息を切らしながら会話をした。
「拾ったって、お兄ちゃん、どうする気?」
「どうするも、こうするも、とにかく、寝かせて、あげないと…」
 やっとの思いで、部屋の前に辿り着いた。ここで一旦瞿裕を降ろす。
「はぁ…」
「はぁ…」
 二人して思わず息をついた。妹も運動不足は否めないらしい。
「んじゃ、中に入れるけど、お母さんには内緒だからな」
「うん、わかったよ」
 さすがは頼りになる妹だ。
「あ〜、でも、昔こんなことが一度あったよね」
「あったか?」
「あったよ、前の家でだけど…お兄ちゃんが捨て猫を拾ってきたとき…」
 捨て猫か…女の子と猫を同類項で考えるか、普通…。すやすやと眠っている瞿裕の顔を見ると、そのまま当てはまるような気がして、不憫に思った。
「いいから、運ぶぞ」
「うんっ」
 早速、運搬を再開した。大きな荷物を抱えたまま、ドアを開けるのには非常に苦労したが、とりあえず、第一の難関は越えた。一旦中に入ると、今度は母親に気取られないように自然に靴を脱ぐ必要がある。妹もわきまえているらしく、いかにも普通に帰ってきたかのような足音を立てていた。こうして、第二の難関を越えた。
 問題は次だ。まず自分の部屋に行く場合、一旦リビングを抜けなければならないので、母親にみつかってしまう。これはまずルートとして成り立たない。妹の部屋ならリビングを通らなくても、そのまま廊下から入れる。ただし、この廊下が狭い。うまく瞿裕の身体を通せるか、自信が無い。しかし、このルート以外は無いのだ。
 くいっとアゴで妹の部屋を指す。すると、妹はコクッとうなずいた。多少のブランクはあったものの、兄妹の意思疎通には、なんら問題がなかった。
 妹の部屋のふすまの前で一旦瞿裕を降ろす。そして、ふすまを開けて自分が先に部屋に入る。そのまま斜めの状態で引っ張ろうとするが、体がつかえて、うまく入らない。そこで妹が一計を案じたらしく、瞿裕の身体を丸めた。その結果ぎりぎりなんとか通れるくらいの幅になった。その身体を、ごろんとこちらへ転がしてくる。
 少々首が曲がって瞿裕が「ぐへっ」とか言ったが、まぁ、それは仕方が無いだろう。妹も部屋に入って、ふすまを閉めた。
「ふぅ〜」
「う〜ん、すごい作戦だったね」
 妹は作戦とかそういうのが好きみたいだった。非常に充実した顔をしている。
「あぁ、お手柄だ」
「うんっ」
「多分、瞿裕はしばらく家には帰れないと思うから…」
「え…まさか…」
「あぁ、本当にしばらくだが、頼む…」
「はぁ…、わかったよ…」
「もし見つかったら、お前の友達ってことでな…」
「え〜、でも…この娘、あたしよりもずっと下みたいだけど…」
「大丈夫だって、発育不良とでも言っておけばなんとでもなる」
 本人が聞いていたら、きっと怒ったに違いない。
「う〜ん…」
「あと、できたら、着替えさせてやってくれないか?」
「うんっ、それは構わないよ」
「んじゃ、あとは宜しくな」
 立ちあがろうとすると、やけに腰が重く、思いがけず「よっこいしょっと」と言ってしまった。
「お兄ちゃん、オヤジ…」
「放っといてくれ…」
 ちょっと悲しい気持ちになって、とぼとぼと自分に部屋に戻っていると、母親に一体何を買ってきたのかと尋ねられた。大きな荷物があったことはバレていたらしい。妹よ、作戦はやや失敗だったぞ。

 翌朝は、疲れていたのかなかなか起きられなかった。昼くらいだろうか、その位になってやっと目が覚めた。
「あ、起きましたね…」
 枕元で瞿裕が妹のパジャマを着て、ちょこんと座っていた。
「あぁ…」
 寝ぼけた頭を掻きむしりながら起きあがる。
「おはよう…」
「おはようございます」
 そして、じっとこちらを見ている。
「どうしたの…?」
「あぁ、その…お腹空いて…」
「あぁ…そうか」
 昨日から何も食べてないもんな…。いや、もしかしたら…。
「瞿裕、昨日は何食べた?」
「えっと…昨日は…パンの耳…」 
 そうか、やっぱりろくなもの食べてなかったか…そりゃ腹も減るだろう。
「じゃぁ、あんまり重いのはダメだな…わかった、雑炊作ってやるよ」
「はい…」
 大人しく座っている様子は、遠くから見ると、まるで座敷わらしか何かのようだ。
「ダイニング、こっちだから…それとも、ここで食べるか?」
「えっと、テーブルで待ってます」
「あぁ、こっちだ」
 後ろをてとてととついてくる。まるで新しい妹が出来たみたいな気分になった。
「じゃぁ、そこに座って待っていてくれ」
「はい…」
 いつも妹が座っている席に礼儀正しく座っている。背中を向けると、本当にそこに妹が居るのではないかという、奇妙な錯覚に陥る。
 どことなく懐かしくて、それでいて新しい…そんな感覚を、背中に感じながらせっせと料理を作った。

「ほら、野菜と鶏肉のリゾットだ」
 あと、おたまですくっただけの豆腐も入れてみた。思えば、もうすこしカロリーのあるものにすれば良かったかもしれない。しかし、ついつい自分の好みで作ってしまうのは、人間の性だろうか。
「いただきます」
「あぁ、召し上がれ」
 小さな細い指がスプーンに絡まる。昼下がりの陽光をハイライトに、とてもよく映えている…心から綺麗だと思った。
「おいしい…」
「そうか、それは良かった…」
 こちらも一口食べてみる。うむ、我ながらなかなかの上出来だ。
「さて、問題は明日だな」
「あした?」
「あぁ、明日、バイトなんだ…」
「そうなんですか…」
「実は、瞿裕がこの家に居るのは親には内緒なんだ」
「…そうなんですか」
「まぁ、大人の事情ってやつだ」
「…そうですよね」
「それよりも、日曜だな…」
「にちよう?」
「あぁ、日曜はバイトな上、母親も仕事が休みで一日中家に居る」
「じゃぁ、一日中外に出てるか、どこかに隠れてるかしないといけませんね」
「因みに、隠す方は拾ってきた捨て猫でやって、失敗した事例がある」
「わたしは捨て猫じゃないです…」
 ちょっと怒っていた。その瞳が余りにも真剣だったので、一瞬冷やりとした。
「悪い…」
「……」
 謝ると、言葉の代わりに、少しだけ表情を穏やかにしてくれた。
「しばらく…帰る気は無いんだよね?」
「そうですね、しばらくは…」
「好きなもの、奢ってやるっていう約束を果たすまでか?」
「そういうわけじゃありません」
 これに関しては、どうやら自分だけが過敏だったらしい。瞿裕の方はてんでお構いなしといった感じだ。
「ははは…ともかくも、一応連絡は入れておいたほうが良いんじゃないか?」
「でも、心配してるかどうかわかりませんけど」
「一応は預かられてるんだろ?」
「……っ」
 このとき、瞿裕が意外な顔をしてこちらを見る。
「あー…」
 なんとかごまかそうとはしたが…
「知ってらしたんですね」
 先に結論づけられた。
「あぁ、悪い、向こうに行って尋いたらな…」
「謝ることはありませんよ、事実ですから」
「……」
 こういうとき、なんて応えたら良いのだろうか。
「わたし、こういうことは、これまでに何度も繰り返してきたので…だから心配してないと思うんです」
「だけど、一応でも連絡は入れといた方がいい」
「…それはそうですね」
「それに、実はある計画があるんだ…」
「けいかく?」
「あぁ、芹那に負けないくらいの計画だ」
「せりな?」
「あー、妹の名前だよ」
「なるほど」
「え〜っと、実はな、一人暮しはじめようかと思ってるんだ」
「ひとりぐらし?」
「あぁ、見ての通り、親元でだらしのない生活を送ってる」
「だらしなくはないと思います…お料理上手ですし」
 そう言って、空になった皿を差し出してくる。おかわりの要求らしい。黙ってそれを受けとって、キッチンに向かう。
「男は料理が巧いだけじゃダメなんだ」
「…コックさん」
「そこまで巧くない」
 鍋に入っていた残りを皿の中に全部入れ、それを瞿裕の前に差し出す。瞿裕は待ち構えたようにスプーンを構え、食事を再開した。
「ともかくも、社会で生きるためには自立していく必要があるんだ」
「はいふぇんれすね…」
 切り損ねた大きなジャガイモを、口一杯に頬張っている…。その様子を頬杖をつきながら見るのは、ある一種の幸せを感じる。
「でだ、もしも一人暮しをすれば、瞿裕もずっとこっちに居ていいし…」
 次の瞬間、そのジャガイモを顔に浴びることになった。
「わ、わ、何言ってるんですかっ」
 顔を真っ赤にして興奮した様子だ。何かマズイことでも言っただろうか…いや、言ったような気がする。家出少女の気持ちを察してやったことだったが、冷静に考えてみれば、とんでもないことだと思った。
「悪い、そういう意味じゃないんだ…」
 手近にあった手拭いで、顔にべっとりとついたジャガイモを拭う。
「はぁ…」
 瞿裕はまだ完全には興奮から醒めていないらしく、はぁはぁと息をついていた。
「ともかくも、こちらに長居するつもりだったら、現状ではダメなんだ」
「…それはわかります」
「だろ…。で、瞿裕をそのアパートに招待するためのは条件を提示しようと思ったんだ」
「じょうけん?」
「あぁ、まず、住んでいたところに連絡を入れること」
「はい…」
「次に、毎日必ず学校に行くこと」
「はい…」
「二番目のは、学校が遠くなるから大変だぞ〜、早起きしないと」
「ここからだと二時間かかりますね…たしかに早起きも大切かもしれませんが、それ以上に…交通費が凄くかかりますよ?」
 盲点だった。なんだ、意外としっかりしてるじゃないか。
「転校は…色々無理だろうな、多分」
「もう三年のこんな時期ですし…」
「三年生か…一年生くらいかと思ってた」
「わ、失礼ですねっ」
 やっぱり、発育不良なんて、口が裂けても言ってはいけないようだ。
「まぁ、とにかく交通費はなんとかしよう」
「じゃぁ、これから家に電話するんだ。それが終わったら、住むところを探すことにしよう」
「…そうですね」
 瞿裕は、穏やかな笑顔を浮かべ、すっかり空になった皿とスプーンを持ってキッチンの方へ向かう。
「洗い桶の中に浸けておいてくれ」
「はい」
 丁寧に洗い桶に食器を流し込む。自分も、後に続いた。

 電話の内容は、案の定というか、帰って来いというものは全く無かったようだ。むしろせいせいされている面がある。これは法律的にヤバイのでは無いか。もっとも、自分がやろうとしていることも、法的には、誘拐に近いものがあるが。
 まぁ、そんな電話のことはさっさと忘れて、二人してあちらこちらを歩きまわった。その結果、不動産屋のウィンドゥに掲げられている中から、ある魅力的な物件を見つけてしまった。
「家賃二万、敷金三ヶ月のスイートルームだ」
「どこがスイートルームなんですか…」
「喜べ、なんと水洗トイレ付きだぞ」
「お風呂は?」
「お、近くに銭湯があらしいぞ」
「で、お風呂は?」
「キッチンはガス付きだ!」
「…無いんですね」
「いいだろ、風呂覗かれる心配も無いし」
「覗くつもりだったんですか…」
「いや…」
 全く考えてはいなかったが、ふとそんなことを言われると、余計なことをついつい考えてしまう。瞿裕のような年頃の女の子の身体…まだ二〇歳の自分には、充分刺激的なものである。
「何考えてるんですか?」
 その顔は、本気で嫌そうだった。
「これ、場所どこだろうな…」
「あ、ごまかしてる…」
 結構しつこかった。
「あれ、ここって…」
「どうしました?」
「あの場所の結構近くか?」
「あぁ、そうですね…距離が大体一時間は縮まります」
「やっぱ田舎か?」
「いえ、あそこはそれほどまでじゃないはずです。昔ながらの家が建ってたりはしますけどね」
「詳しいよな」
「無駄に生きてませんから」
「あぁ、そうだな…」
 自分の無為な生活のことを鋭く指摘されたような気がした。もっとも、瞿裕にその気は無いのだが。
「で、学校への距離も近くなるし、ここでいいんじゃないか? 一時間だし」
「いえ、一時間かかりませんよ」
「へ?」
「学校そこにありますから。あそこから一時間かけて登校していたんです」
「なら、ちょうど良いじゃないか」
「一緒に住んでるのがバレたらヤバイと思います」
「あぁ、それもそうだけど」
 でも、学校が近くになれば、瞿裕も今よりは学校に行く気になるかもしれない。そう思うと、どうしても退く気にはなれないのだ。
「とにかく、経済的にも、ここがベストなんだ…」
「でも…」
「『でも』はない」
「翔さんのアルバイトはどうするんですか?」
 あっ…忘れてた。

 かくして、難航した一人暮し計画であったが、翌日オーナーに引越しのことを相談をしてみたところ、ちょうど主婦のパート申し込みがあったらしく、今抜けても大丈夫ということだった。
 しかも、例の物件のあるところの近くに、同じ釣り仲間の経営している喫茶店があるとかで、口を利いても良いというのだ。かつて見せた真面目さが功を奏したらしい。
 これは予想もしなかった幸運である。後々必要な手続きも、親の承諾も、新たなバイト先との交渉でさえも、立板に水を流すように、スムーズに運んだ。


 手続きの期間が終わり、ついに引越しの時となった。一通りの荷物を運び終え、今度は部屋に設置する番だ。
「あの、翔さん…」
 その部屋を目の当たりにして、瞿裕が話しかけてきた。
「なんだ、瞿裕」
「すごく狭いんですけど…」
「あぁ、なんか四畳半って感じだな」
「本当に二人も寝れるんですか?」
「まぁ、言うだろ、狭いながらも楽しい我が家って…」
「はぁ…」
「お兄ちゃん、瞿裕ちゃんを困らせちゃだめだよ」
 後ろから、ダンボールを抱えた妹が、瞿裕の困り果てた様子を見て、楽しそうに語りかけてきた。
「まったくです…」
「別に困らせてないぞ」
 そんな具合に、楽しく引越し作業は進んだ。瞿裕が持ってきた荷物が鞄一つだけだったのが幸いで、夕方までにはなんとか寝床を確保することができた。
「うん、大体こんなもんだね…じゃ、あたしは帰るね」
「芹那さん、今日はどうも」
 ペコリと頭を下げる瞿裕。その様子はとても可愛らしかった。
「あぁ、芹那、お疲れ様…」
 用意しておいた封筒を、妹の手に握らせる。
「あ、お兄ちゃん、いいよ、そんな…」
「引越しのバイト代だよ」
「いいよ、そんな、あたしだって楽しかったんだし…」
「安心しろ、諭吉さんは入ってないから」
「でも、今回の引越し代とか、これからだって、お兄ちゃん色々大変でしょ…」
「いいから、受け取れって」
「う〜ん…じゃぁ、ありがたく受け取るね…」
「ほら」
「うん、ありがとう」
「それじゃね!」
 そして、妹は帰って行った。
「一体いくら渡したんですか?」
「百万円」
「で、いくらだったんですか?」
 冗談が通じないよなぁ。
「あぁ、二千円だよ」
「少ないですね…」
「帰りの電車賃と、軽い間食代だよ」
「あ、なるほど」
 結構考えてみれば、都合の良い兄貴である。妹は封筒を開けてみて、がっかりしているかもしれない…いや、芹那ならそれはあり得ないか。

 瞿裕は学校、自分はバイトに励んだ。意外と水代と光熱費がバカにならないことを実感できた。
 洗濯や食事といったことは、自分が担当したが、時々瞿裕が料理を作ると言い出すことはあったし、それに洗濯も、下着だけは自分で洗っていた。
 それなりにうまくいっていたが、時々喧嘩することもあった。二人ともまだまだ未熟なのだ。
「なぁ、瞿裕」
「はい?」
「二人で日記つけないか?」
「にっき?」
「あぁ、交換日記っていうやつだな」
「こうかんにっき…」
「とにかく、二人で生活してるんだし、意思疎通というのが大事だと思うんだ」
「いしそつう…」
「どうだ? もうノートだって買ってあるぞ」
「う〜ん…」
「…だめか?」
「いいです、やりましょう」
 瞿裕がにこっと微笑んだ。いい笑顔だった。この笑顔がずっと続けば良いと思った。

* 6 *

 すっかり、世界は冬色に塗りかえられてしまった。通りの並木はすっかり葉を失い、人々は灰一色になって、白い息を吐きながら、あちらへこちらへとせわしなく移動している。空は雲ひとつなく、ただ、虚しいだけだ。
 少し前までなら瞿裕と眺めたであろう、空。だが、今は独りだ。同じ空を、同じ時間に、同じように見ることはない。
 こんな自分のことを、妹はよく理解しようと努めてくれたことはあったが、無駄な努力だった。妹は、瞿裕とは違う…根本的に違うのだ。妹には、じっと空をみつめつづけるなんてことは、とてもできない。
 かつて、瞿裕と交換日記をつけていたとき、瞿裕の、隠された内面を沢山知ることができた。沢山自分と同じ所があった。瞿裕に必要だったのは理解者なのだと思っていた。同じ立場で物を考えることの出来る自分は、それを理解することができた…だからこそ一緒に居るのだと思っていた。今、二人はお互いを支えあって生きているのだと思った。だが、それらはすべて、とんだ思い違いだったのだろうか…いや、そうではないはずだ。
 しばらくは独りでも、アパートで瞿裕の帰りを待った。だが、押し寄せてくる冬の勢いには勝てず、それも心を鬱へと引き込む要因にしかならなかった。そして、今に至っては思い出の詰まっていた四畳半も引き払い、またもとの無為な生活に舞い戻りしている。
 人生のうちで最も幸せだった時期を挙げろと言われれば、間違いなく瞿裕と過ごした日々を挙げるに違いない。そんな日々が崩れなければならなかった理由は一体何なのか…。今、少しずつ気持ちを整理している。

 秋真っ盛り、定休日と祝日が珍しく重なったので、紅葉狩りにでも行こうかと、瞿裕と公園に出た。
「なぁ、瞿裕…」
「はい?」
「綺麗だな…」
「はい、綺麗です…」
 ほんの小さな幸せをかみ締めていた。とてもじゃないが、これから不幸の前兆が起ころうとは、予想できなかった。
「ちょっとトイレ行ってくる」
「はい…」

 軽く小便を済ませ、瞿裕の方に戻って行くと、前に見たことがある女性が居た。瞿裕に対して、しきりに何かを訴えている。瞿裕の方は嫌そうだ。何事かと近寄ろうとすると、女性は諦めて去って行った。
「どうしたんだ?」
「…さぁ…」
 瞿裕は浮かない表情だった。それよりも、さっきの女性の後姿には見覚えがあった。一体誰だったか、この時は思い出せなかった。

 だが、その女性が一体誰であるのか、数日の後、明らかとなる。その女性が、バイト先の喫茶店に来たのだ。その女性の顔をしかと見て、思い出した。あの、三田村嬢だ。嫌な予感を抑えきれなかった。
「店長、すみません、ちょっとだけいいですか?」
「あん、どうした?」
「昼休み返上でいいので、ちょっとだけお願いします…」
「あぁ、わかったが…」
 別に客の多い時間帯でもないので、迷惑にはならないだろう。さっさとエプロンを取って、その女性の前に立つ。
「こんにちは」
「あら、キミは…」
 それから、懐かしがる三田村嬢の長い思い出話がはじまった。店長がサービスで入れてくれたコーヒーを飲みながら、とりあえず気の済むまで話させた。
「で、こちらからの用件なのですが…」
「あら、何?」
「昨日、瞿裕に何の用だったんでしょうか?」
「あなたには関係の無いことよ」
「あります」
「ふぅ…」
 一息置いてから
「そうね、キミは同じ屋根の下に住んでるんだもんね、知っておく権利はあるわね…」
「ご存知だったんですか…」
「同じアパートから同じ時間に二人揃って出てくるのが数日も続いたら、誰にだってわかるわよ」
「酷いですね、監視してたんですか」
「偶然よ、監視なんてしてないわ…私、あの辺に住んでるの」
「そうだったんですか」
「それは置いといて…、とにかく話すわね」
 それから三田村嬢から語られたことは、かつて嫌というほど聞かされた部落問題からはじまった。嫌な予感は見事に的中していた。あの家出少女は、瞿裕と一致している。そこで、本人に取材の依頼をしようとした…というのが、大方の筋だった。
 今でこそ部落差別は無いが、やはり本人達からしてみれば、恐怖以外の何者でもないのではないだろうか。自分だって、いきなり『お前は部落の人間だ』と言われれば、今まで感じなかった恐怖を覚えるに違いない。それを穿り返す必要が、果たしてあるのだろうか。
「で、その確たる証拠は?」
「あなたの後ろに…」
 驚いて後ろを見ると、一人のしゃんとしたスーツ姿の男が立っていた。瞿裕が居るのではないかと不安に思ったのだが、そうではなかった。
「三田村さん、取ってきましたよ」
「ありがとう…」
 男から、メモが三田村嬢の手に手渡された。
「それは?」
「あの子の戸籍よ」
 なんということだろうか。戸籍は誰でも調べることはできる。だが、人として、それが許される行為なのだろうか。自分は腹の中から、とてつもない怒りが込み上げて来るのを感じた。
「あ、あんた達はなんてことをっ」
 思わず立ちあがって机を叩こうとするが、その手を先程の男に捕まれる。
「一四,五のガキと同棲しているような奴に言われたくは無いね」
「なっ、でも、決して…」
 なんていうことを言うのだろうか、この人は…。心からこの男を軽蔑した。
「柳君!」
 三田村嬢が言い過ぎだと言わんばかりに叱咤する。だが、この人だって、柳とかいう音と、同じ人種だ。
「……」
 手を引くよりなかった。その男の台詞は、痛く心を貫いた。三田村嬢もだ。それが現実なのだと思った。世間の目というのは、そういうものだと思った。
 この場は大人しく引き下がるより他に無かった。なによりも、手に力が入らなかった。

 その日の夜、入浴が終わったあと、瞿裕と話しをするつもりで、部屋で帰りを待った。瞿裕の方が風呂が長いため、行くのは一緒でも、いつも帰るのは自分が先だった。その間に考えることもできて、好都合ではある。だが、今の自分は落ちつかず、部屋の中をうろうろとしているばかりだった。頭の中では同じ事がぐるぐる回っているだけで、なんら進展は無かった。
 ガチャリ…やっとドアが開いた。思わず駆け寄る。
「ただい…」
「あぁ、瞿裕、ちょっと話しがあるんだ」
「わぁ!」
 迫っていったために、驚かせてしまったのだろうか…瞿裕が後ろに跳ねる。いや、違う。こっちとぶつかって跳ねたのだ。瞿裕の軽さを改めて実感した。
「悪い…」
「びっくりした…あ、ちょっと洗濯物を出してくるので、待っててください」
「あぁ…」
 自分で洗濯する分と、残りを分けるのだ。いつも、入浴が終わってからやっているらしい。もっとも、下着を変えるのはこのときだけだから、当然といえば当然なのだが。

「あれ…」
 しかし、戻ってきた瞿裕はお風呂セットを持ったままだった。その顔は何となく不安そうだ。
「どうした?」
「えっと、銭湯に忘れ物しちゃったみたいなので、取りに行ってきますね」
「そうか」
「じゃ…」
 瞿裕は慌てて部屋を出て行った。シャンプーでも忘れたのだろうか。とりあえずは待つことにして、もう一度話すべきことを考えた。
 そのとき、ふと視点の先に何かが落ちているのを発見した。何かと思って近寄ってみる…。
「……」
 手に取ってみた…それは、瞿裕の下着だった。飾らない、白い下着。すぐに手を離そうとした。でも、なぜか意志とは裏腹に、手が動こうとしない。それどころか、下着の裏側に指を這わせ、かつて部分が接触していたであろう場所を、何度もなぞっている。
 瞿裕が忘れたといっていたのは、恐らくこれだ。さっきぶつかった拍子に落としたのだろう。つまり、まだ洗ってもいない下着ということになる。これには、瞿裕がびっしりと染み付いているはず…。
 そう思った途端、手が勝手に顔の方へと動いていた。自分は何をしようとしているのか。ふと喫茶店で男に言われた言葉を思い出す。やめろ、やめてくれ。今まで瞿裕に対してそういった感情は持っていないと思っていたし、そして、それを誇っていたのだ。なのに、何だ…自分はしっかりと瞿裕に対して…瞿裕に対して、欲情しているじゃないか…。
 もう、白い下着が目の前に迫っていた。瞿裕が今すぐ戻ってくることを祈った。瞿裕が戻ってくれば、これからしようとする行為をやめることができるはずだ。頼む、戻ってきてくれ、早く…。
「くそっ」
 そんなすぐに帰ってくるはずもなかった。強引に手を床に叩きつける。しかし、下着は手から離れなかった。
「くっ…」
 その手は見ないようにして、ズボンのポケットに突っ込んだ。
「はぁ、はぁ…」
 頭が少し混乱していた。はじめは、家出少女に同情し、助けるだけのつもりだった。しかし、今それが壊れた気がする。自分は女性として、瞿裕のことを見るようになっていた。
そうなったら、あの哀れな少女とは一緒に生活できないのではるまいか…。

 瞿裕が戻ってきたのは、それから五分程してからであった。
「おかえり」
「ただいま」
「探し物、みつかったか?」
 我ながら、なんてしらじらしいことを言うのだろうと思った。
「ううん、みつからなかった…」
 がっかりと肩を落とす瞿裕。みつかるわけがないだろう。お前が探しているものは、今、この右のポケットの中にあるのだから…
「そうか…」
「で、話しって何?」
「あぁ、それなんだけど…」
 喫茶店の聞かされたことに付加して、今の生活についてまで話してしまった、いや、話さずにはいられなかった。
「あはは…」
 全て話し終えたとき、瞿裕はただ苦笑いを浮かべているだけだった。
「で、取材頼まれてるんだよな」
「……」
 瞿裕は黙ってうなずいた。
「何も、話すことなんて無いと思う。やっぱり、知られたくないことなんだろう?」
 その言葉を聞くと、瞿裕の顔が一気に変わった。
「やっぱり、部落の人は嫌ですか」
「そういうわけじゃないけど」
「部落の人間というのは、人に知られてはいけないんですね」
「いや、そうじゃなくてだな…」
「わたしは、生まれ故郷が好きです。お父さんもお母さんもお兄ちゃんも弟も…色々あったけど、やっぱり好きなんです。ただ、わたしはもっと堂々と生きたかっただけなんです。施策なんかに頼らないで、他の人と同じように生きたかっただけなんです」
「……」
 しまった…そう思った。瞿裕は部落出身であるということから逃げたかったわけじゃないんだ。必要も無いのにつきつけられる、施策というハンデを捨てたかったのだ。ようやく、三田村嬢が熱心に語ってくれたことの意味がわかってきたような気がした。
「あの…やっぱり、わたしもこういう生活は世間的に見てマズイと思っています」
「あぁ…」
「翔さんはもう、わたしと一緒に居るの、迷惑ですよね…」
「迷惑だなんて、そんな」
「部落出身の女の子なんて、嫌いですよね…」
「そんなことは…」
「いいんです、この生活が世間的にマズイっていうことは、わたしにだってわかりますよ」
「……」
「でも、それも翔さんのことを好きだったから…。でも、今は…だからこそ、これ以上、翔さんに迷惑をかけたくないんです…」
「あ…」
 声が出なかった。瞿裕の方が、ずっと自身の感情についてわかっていた。それを自覚していなかったのは、自分だけだったのだ。
「もう、わたし、帰ります」
「帰るって…」
「翔さんとはじめて出会った土地です…」
「あぁ…」
 まだまだ自分は瞿裕のことがわかっていなかったのだ、このか細くて、小さな存在は、自分なんかよりもずっと強くて、まっすぐと上に向かって生きようとしているのだ。それを認識すると同時に、自分を恥じた。

 再び窓の外を見渡してみた。相変わらず空は空虚だったし、人々は色が見えなかった。だが、その中で、どうしても見逃すことができない人物が一人だけ居た。
「(あの人っ…)」
 そう、あの人…あの人さえ居なかったら…。いや、それは向けるべきベクトルが違う。悪いのはあくまで自分だ。だがしかし、もう一度会って話しをしたい。瞿裕のその後のことだって気になる。
 慌ててマンションを降り、その人を探す。そう遠くへは行ってしまってはいないはずだ。窓から見た進行方向を確認し、そちらへ走る。大きな建物の角を曲がり、交差点に差し掛かったところで、その人を見つけた。
「はぁ、はぁ…」
 気配でも感じたのか、その人は呼びかけるまでもなく振り返った。
「あら、キミは…」
「お久しぶりです、三田村さん…」

* 7 *

 三田村嬢――これほどまでに関わるのを嫌い、それでいて、関わることを余儀なくされた人というのは、そうそう居ない。まさに悪縁…腐れ縁だ。もっとも、相手にその気は無いようだが…。
「何の用かしら?」
「一つ、尋きたいことがあるのですが」
「何?」
「瞿裕の取材は終わりましたか?」
「えぇ、もう終わったわ」
「そう…ですか」
「まだ、私達のことを怒っているのかしら?」
「今更、よくそんなこと言えますね」
 一時は抑えていた怒りが、またふつふつと湧きあがってくるのを感じた。抑えなければ…それはわかっている。だが、どうしても抑えきれなかった。
「あなた達があんなこと穿り返さなければ…」
「ふぅん、穿り返さなければ…どうなったの?」
「くっ…うるさい!」
「女の子に逃げられたからって、かっかしないでくれる?」
 三田村嬢は、腰に手を当てて、厳しい表情でこちらを睨みつけてきた。
「…くそっ」
 もう話したくもなかった。これ以上怒りに身を任せる気にもなれずに、背中を向けて引き返すことにした」
「あ、待ちなさい、まだ話しは終わってないのよ」
 一体何の話しがあるっていうんだ…放っといてくれ。
「いい? 決してあの子は嫌々ながらに取材に応じたわけじゃないのよ」
 そんなこと、わかっている…。
「キミが本当にあの子を好きだというのなら、彼女の出生に関しても、全て受け入れてあげるべきよ」
 好き…か。これはついこの間気づいたことだ。だが、もう遅いような気がする。
「あの娘、一見しっかりしているように見えるけど、実際にはすごくナイーブで、デリケートで…心の支えが必要だと思うのよ」
 心の支え? なんだ、それは…。
「ちょっと、聞いてるの?」
「うるさいっ!」
 つい、手が出てしまった。その反動で、高いヒールの靴を履いていた三田村嬢は、大きくよろける…
 あっ…と思った時にはもう遅かった。彼女は勢い余って車道にまで出てしまう。突然の出来事に、車も止まりきれなかった。
 ブレーキ音が鳴り響く…。何が幸いだったかといえば、ちょうど信号が赤に変わり、車の流れが減速状態であったことだ。これにより、急ブレーキによる大惨事だけは避けることができた。
「三田村さんっ!」
「ぐぅ…」
 どうやら、まだ意識はあるようだった。この時のほっとした気持ちは言葉では言い表せない。絶対に助かる…そういう確信を得た。
「早く、救急車を!!」

 三田村嬢は三ヶ月の入院で済む怪我だったそうだ。安心した。この場合の過失がどの程度になるのかはわからなかったが、とりあえず彼女に謝罪するために、容態の良くなった頃を見計らって見舞いに出かけた。
 病室は六人部屋であった。開きっぱなしの扉を、奮発して買ったフルーツの詰め合わせを携えて、くぐった。
「失礼します〜」
 このような場所はどうも馴れないため、小声になってしまった。つまりは緊張しているのだが、その緊張も、ある男の姿を見ると、一気に大気圏外に吹き飛んでしまう。
「あ、あんたは…」
「よぉ、坊主」
 かつて喫茶店で会った、柳という男だ。
「なんだい、かわいいカノジョに別れられたんだって、ご愁傷さまだな」
「うるさいっ!」
 頭に血が上った。病院であることも忘れて、思わず怒鳴ってしまった。周りから非難の視線が集中した。
「柳君、いい加減にしてよ。それとキミ、ここは病院だから静かにしないと…」
 三田村嬢は冷静だった。言いかえればクールなのだが、そのクールさが嫌いなところと言えよう。もっとも、仕事に対しては情熱的なようだが。
「やっぱ、ガキに欲情するような奴は、心まで成長が止まるのかねぇ」
 この男は見るからに嫌な野郎だった。もっとも、言っていることはあながち外れてもいないような気がした。だが一点だけ腹立たしいことがあった。
「瞿裕はガキなんかじゃない…」
 それだけは言っておきたかった。
「柳君…悪いけど、私、彼と話しがあるから、ちょっと外してくれる?」
「へいへい、あっしはお邪魔虫ねぇ〜」
 彼は、スーツを肩に掛けながら、かったるそうに病室を出て行った。

「さて、今日は何の用事で来たのかな?」
「えぇ、先日のお詫びです」
「お詫び…何かしたかしら?」
 一瞬怒っているのかと思った。瞿裕や沢倉さんは、怒るとこのような言いまわしをよく使った。
「突き飛ばして、すみませんでした…まさかこんなことになるなんて…」
「突き飛ばす? 何のことかしら…」
 しかし、三田村嬢は違った。表情が穏やかで、怒りなど微塵も感じさせない。
「あの、あの時、確かに…」
「私はそんな記憶無いわ…」
「でも…」
「いい? 私は自分でつまづいて、自分で車道に出て、自分で車に轢かれたの」
「あ…」
 やっと気づいた。この人は面倒が無いようにするつもりらしかった。恩でも着せるつもりなのか、そうでないのかはわからなかったが。この厚意は受けることにした。
「わかりました…」
「そう、わかってくれて嬉しいわ」
「…はい」
「次の話もわかってくれると嬉しいんだけど…」
「はぁ…」
「いい? ようく聞いて…」
 嫌とも言えず、自分は彼女の話しを聞くことになった。話しの内容は、彼女自身の体験についてであった。今より二〇年前…六、七〇年代くらいだろうか。まだ部落に対する差別が、一部では残っていた時期だったそうだ。
 当時一〇歳だった彼女には、仲の良い遊び友達が居たそうだ。その子と出会ったのは、その子がいじめられているのを、見かけたためだそうである。
 だが、ある日、親からその子と一切口を利いてはいけないということを言われたらしい。その時は理由はわからなかったそうだが、とにかく当時の彼女はいわゆる『良い子』であり、親の命令には絶対服従だった。だから、その子とも遊ばなくなったらしい。
 それから何年かして、その子が部落地区から逃れてきた人達であることがわかったらしい。もっとも、部落とは何であるのかわかるまでに、さらにあと数年を費やしたそうだが、『良い子』だった彼女が、『良いこと』と思ってやっていたことが、実は『良いこと』ではなかったということを知ったとき、非常にショックだったという。
 それから一〇年後、その子と再会することがあったが、そのときのことを忘れては居なかったらしい。既に一〇年の時が過ぎ、部落差別というものが世の中から忘れられていっても、その差別を受けた人達の心の中には、いつまでも傷が残っていたのだという。
 もともと、正義感の強い人だったのだろうか、彼女はそこで部落問題について突き詰めていくことを決心したらしい。そして、今に至るという話しだった。
 この話を聞いて自分は思う。たまたま…である。たまたま三田村家がそういったことに厳しい家柄だったのだ。たまたまそこに生まれた子供に、一体何の罪があろうか。社会が生み出した偏見が、多くの人を巻き込んで崩壊させていくのは、許せないものがあった。
「でね…、そんな私だから、言えることだけど…」
「…はい」
「きっとね、キミは、かつての私と似たような立場にあると思うの」
 確かに、近いものはあるかもしれない。ただ、敵対するものが少し違う。
「世間一般で言う良識とかそういうものは、大勢の判断に頼っている部分が大きいの。だから、下手をすれば方向性を見失いかねないわ」
 それは確かにわかる。民主主義の欠点とも言えよう。日本の場合はムラ単位…国という大きなムラ単位に近くはないか。
「本当に正しいかどうかは、自分で判断をするべきよ。社会が間違っていれば、社会は間違った解答しか与えてくれないから」
 どうだろうか、それは独善ではあるまいか。
「独り善がりって言われるかもしれないけど、そうじゃないから…。キミならきっと正しい判断が出来る…そう信じてるわ」
 さて、どうだろうか。自分には偏狭な判断力しかないようにも思える。
「言いたいことはこれだけ…」
「そうですか…」
「あぁ、それとあれ、取材した時に、あの子から預かってたんだけど…」
 三田村さんが棚の上にある、一冊のノートを指差す。
「あ…」
 そのノートに見覚えがあった。瞿裕との交換日記。別れた日、あの日はちょうど瞿裕の番だった。このノートを持ったまま、瞿裕は出かけたのだ。
「中は見てないから、安心しなさい…」
 慌てて、中を確認する。最後の、一番最後のページには何て書いてあるのか…。
「一一月一七日 木曜日

 先日、三田村という人から、取材の申し出をされた。わたしにとっては触れて欲しくないことだった。でも、わたしは敢えて受けた。わたしはそんなものに負けたくはない。
 いつか、わたしの生い立ちについて、翔さんにも話さなければならない。でも、今はまだ話す勇気が無い。話せるようになるまで、翔さんには、どうか待っていて欲しい。

 翔さんへ…。どうか、わたしのことを優しく見守っていてください。わたしはいつも不安で不安でならない…。できれば、ずっと支えて欲しい…

                                  Kuyu」
 学校で書いていたのだろうか。シャープペンシルで綴られたその想い…。消そうとした跡が、ところどころにある。でも、瞿裕はそれを消せずにいたのだ。そして、持っていることに堪えきれず、それを三田村嬢に預けたのだ。
 哀れな少女に対して情けを掛けるのはいい。だが、それはあくまでそれを行うものの勝手な見識によって成されていることを忘れてはいけない。それはまさしく自分に当てはまる。相手は捨てられた、可哀想な子猫ではないのだ。一人の人間であり、いつか必ず恋をする人間なのだ。独善でも、偏狭な判断でも、何でも良い、瞿裕は…
「…ありがとうございました」
 瞿裕は…きっと、心の支えを必要とし、そして会いたがっているのではないか…。誰でもない、この、俺に!!
 居ても立ってもいられなかった。すぐに駅に行き、かつて瞿裕と出会った土地へと向かった。

* 8 *

 着いた頃には、すっかり空は茜色に変わっていた。瞿裕も学校から帰った頃だろう、その上では、ちょうど良かった。
「すみません、瞿裕、帰ってますか?」
 まず、瞿裕が住んでいるという、篠崎さんのお宅に行ってみた。
「まだ帰ってねぇなぁ」
 今度は中年の男性が居た。
「そうですか、どうもありがとうございます」
 足早にそこを去る。あの瞿裕のことだ…まっすぐ家に帰るなんてことはしないはずだ…。まず、川沿いに走って行ってみる。いつも夜中に居た場所だった。川縁まで降りて行ってみるが、瞿裕の姿は無かった。でも、何となく、さっきまで居たような気がした…不思議と。
「(ここじゃないか…)」
 ということは、あともう一箇所…。はじめて瞿裕と出会った場所…あのお堂のある場所へと急いだ。
「はぁ、はぁ」
 息を切らして階段をのぼり詰めると、一つの影ががあることに気がついた。その影は、こちらに気付くと、背中を向けてしまった。
「瞿裕っ!」
 だが、彼女は振り向かなかった。当然だろう、あんな別れ方したもんな。
「なぁ、瞿裕、あのときは悪かったと思う」
「……」
「だから、また前みたいに…」
「……」
 だめだった。瞿裕は微動だにしない。何が悪いのか…それは自分が自分として、まだ乗り越えるべき壁を乗り越えてはいないのだ。もう乗りきったつもりではいるが、まだ完全ではない。
「日記、見たよ」
「……」
「瞿裕、かつての俺はな、俺という人格がどこかに行ってしまっていたんだ」
「……」
「理屈ばかりをこねて、中身は空っぽのダメな人間だったんだ」
「……」
「でもな、瞿裕と知り合ってから、それが少しずつ癒されてきたような気がした」
「……」
「俺が俺で在りつづけるためには、どうしても瞿裕が必要だと思う」
 瞿裕は拒絶を表しているのか、下を向いてしまう。あと少し、もう少し勇気が欲しい…
「…瞿裕、俺は、俺は、お前が好きだ!!」
「……!」
 瞿裕ははっとした表情でこちらを見る。
「どうしようもなく、好きなんだ」
「……」
 瞿裕の目に涙が溢れてくる…。どれだけ淋しい思いをさせてきたのだろうか。
「今度は、俺の、俺の恋人として…付き合わないか?」
「……」
 黙ってうなずく、瞿裕。良かった…俺を受け入れてくれた。
「じゃぁ、交換日記も再開しないとな…たいぶ間が開いちゃったけど…」
「翔さん…はやくしないと…」
 言ってるそばで突然遮られた。
「何だ?」
「はやくしないと…夕焼けが消えちゃいます…」
 涙は消えなかったけど、瞿裕の微笑みがぱっと花開いた。前よく見ていた笑顔…ずっと続けば良いと願っていた笑顔。
「あぁ…」
 そういえば、前に夕焼けを一緒に見たいと言っていたことを思い出した。振り返ると、もう太陽は沈んで、綺麗な夕焼けが浮かんでいた。
 二人並んで、その赤茶けた空をずっと眺める。これも、約束…のうちだと思う。こうして、俺ははじめて、約束を果たすことができた…最愛の人と。

〜 エピローグ 〜

 コンビニのバイトも、だいぶ板についてきたような気がした。あの日以来仲良ぅするようになった七瀬君もやさしい感じで、他のクルーの人との橋渡しとかしてくれた。お陰で色んな人と気軽に話せるようになった。
 ある日、バイト中に、他の曜日の娘が来て話しが盛りあがったときやった…。
「なぁなぁ、有紀は将来どないな職業に就くん?」
「え〜、わたし…う〜ん、普通におーえるやってると思うなー」
「ほな、由佳は?」
「う〜、あたしは、玉の輿かな」
「はは、由佳やったら玉の輿もできなくはないかもなぁ」
「でしょでしょー」
「で、美伊奈はどうするの?」
「う〜、ウチはとりあえず大学入るか入らへんか…う〜ん、まぁとりあえず生活費だけ儲かったらえぇねんけどなぁ…」
「じゃぁ、適当な男みつけてひっかけちゃえばー?」
「適当な男言うたかてなぁ…」
「何言ってんのよ、美伊奈にはスゴイ良い人居るじゃん!」
「ん〜、誰かおったっけ?」
「やだっ! とぼけちゃって、いつもらぶらぶじゃん」
「ら、らぶらぶ?」
「あー、そうかぁ、美伊奈にはスゴイ人が居たねぇ」
「だ、誰や?」
「七瀬君よ〜、彼、すごいのよ、東大でしょ、東大」
「東大…七瀬君、東大やってんか…知らんかった…」
「うん、それも成績優秀、ルックス抜群、オマケに将来有望…あぁ、あたしももらえるものだったら、もらいたいもんよ」
「はぁ…」
 ウチにはいまいちわからへんかった。あの冴えない七瀬君がこんなに人気あるなんて…。確かに、七瀬君はやさしい。でも、うちは特別な感情は持ってへん。ただ、良いお友達やと思ってる。

 退勤時間が来て、外に出ると七瀬君が大きな竹ぼうきで、掃き掃除をしていた。
「七瀬君、おつかれさま」
「あ、おつかれさまです」
 さて、七瀬君は一体ウチのこと、どない思うてんのやろ…。聞いてみるのも悪くはないと思った。
「なぁ、七瀬君…」
「はい、なんでしょう?」
「ウチのこと、どないな風に思ぅてるん?」
「…と、言いますと?」
「う〜ん、まぁなんていうんやろうな…」
「…はぁ」
「う〜ん、やっぱえぇわ」
 なんや、もの凄ぅ恥ずかしいこと尋こうとしていることに、気づいた。だからさっさと帰ろう思うたんや。でも、それはでけへんかった。後ろから突然…
「ミーナ!」
 懐かしい呼び名を聞いたからや。驚いた。もう聞かへんと思ってた呼び名…。振り返ると、そこには背の低い女の子を連れた、厨川君が居た。やっぱり、厨川君が…『しょう君』やってんな…。
「ミーナ…悪い、忘れてたわけじゃぁなかったんだが…とにかく、今日会いに来たんだ」
 なじってやろうかと思ったのに、なんでか声が出ぇへんかった。
「まぁ、これまでにも一応会っては居たし、ギリギリセーフってとこだよな?」
 こんな無茶苦茶な…待ちつづけてた人の気持ちをてんでわかっていない台詞なのに、でも、どうしてこんなに心に響くんやろう…。
「で、ミーナに是非とも紹介したい奴が居るんだ」
 しょう君は、隣に居た女の子を両手で前に出す。
「瞿裕っていうんだけど、俺の恋人なんだ…」
 『あ、こいつぅ』って思った。やってられへんわ。ウチはずっと待ちつづけてたいうのに、普通こんなこと言うやろうか。考えられへん。胸の中から、何かが湧きあがってくるのを感じた。
「で、ミーナの方はどうなんだ?」
 この一言で、その湧きあがってきたものが外に出てしもうた。父親に育てられたせいやろうか、自分でも負けん気が強い方やとは思ぅてたけど…。
「ウ、ウチかて、恋人なら居るで、ほら、七瀬君や! えぇやろ!! もう結婚前提やで!!!」
 誰がいつ結婚前提なんて言ったんやろうか。とにかく、こないなことを大声で口に出してもうたら、もう収集がつかへんかった。
「さ、さ、沢倉さん…」
 七瀬君は顔を真っ赤にして、何かを必死に訴えようと口をもごもごしていた。でも、否定はせぇへんかった。
 近くを通りかかっていた人が、こちらをちらちらと見ている。だんだんウチも頭から足先までかぁっと熱くなっていくのがわかった…。
「おぉ、やりますね、七瀬さん。ミーナも良かったな!」
 しょう君の笑顔はすがすがしかった…。なんとかせんと、なんとかせんと…
「あ、なっ…」
 恥ずかしさの余り、言葉にならへんかった。もう、どないにでもなってまえ!!

 木枯らしが吹きすさぶ街――でも、この場所だけは暖かさに満ちていた。
 すっかり生気を失ってしまった、並木達の身体についている小さな芽…春になるまで、どうかこの芽が無事でありますように……

一九九九・一二・一 紫陽


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